限られた時間、定年まで

先日のニュースで、あるメガバンクが非正規雇用者の労働環境改善のため、3年間契約社員として働き続けば、原則として契約更新なしに定年まで働けるような契約に替える方針を導入するそうだ。私はこれを歓迎する。もちろん、労働者の安定した労働環境は重要だが、それより深層な理由もある。

銀行での非正規雇用者の特徴は、限られた時間を働くことであるようだ。つまり、一週間40時間程度の勤務時間ではなく、一週間20時間などの形になっていると思う。このような職務が安定した定年まで続く職業になるのは大変良いことだ。

現在社会では食糧も豊富だし、必要な物は簡単に入手できるので、毎日8時間働く必要はない。社会の維持するために、一日の4時間で充分であるとも言われているが、本当にそうであるかどうか分からない。それはとにかく、仕事以外の活躍のための時間を確保することは、前にも述べたが、重要である。現行の制度で、週に20時間などの職業は安定していないことは多いので、他の活動に安心して参加できないこともある。しかし、メガバンクの方針が普及すれば、そうしたい人は安定した勤務先に就くことはできるようになる。

仕事の内容は人生を咲かせるやりがいがある人もいれば、食べるために働いて、魂を別な活動に注ぐ人もいる。後者の安定した生活を支えるために、このような方針は良い。

努力と休憩の均衡

努力と休憩で均衡をとるのは重要だ。努力しないと、何もできない。成果は挙げられない。そして、努力は少なすぎれば、実現されない潜在的な可能性は永遠に眠る。一方、休憩は少なすぎれば、できることが激減する。体力も精神力もなくなる。

いつもこの二つの極端の間を縫って行かなければならないので、難しい問題だ。特に、なるべく多くのことに成功したかったら、努力の方へ傾けるので、過労にならないように気をつけなければならない。

最近、私は均衡を維持することに失敗しているので、今日の投稿を短くする。「休憩する」とは言えないが、他の義務を果たすための余裕をちょっと作らせていただく。

起業の難易度

新しい企業を立ち上げるために、どのぐらい努力は必要だろう。

これで、企業が行う営業の内容について触れない。その努力は営業のないようによって大きく異なるし、人によっても異なる。例えば、英語への翻訳を提供しようとしたら、私には英語の能力の整備は不要だが、日本出身の人であれば、英語力を身につけたり証明したりすることは大変だ。このような努力は避けられないし、苦労する場合も少なくない。

しかし、営業の内容の整備以外の準備も必要だ。それは納税の手続きとか、行政との登録などの事務手続きである。この手続きも簡単ではない。複数の届出が必要となるし、これから立ち上げる企業に付いてきちんと答えられないこともある。

このような手続きをなるべく省くべきだと思う。住民の自由を保障するために、企業を立ち上げる選択肢は重要だ。雇用環境は良くなければ、自分の起業して、自分の経済活動を発足させることは良い。皆がそうするはずはないが、すぐに選べる選択肢として提供するべきだ。

だから、例えば、事前の登録を必要とするべきではない。企業の運営が始まったら、最初の多忙期が終わったらこのような手続きしても良いと思う。確かに納税がちょっと延期されるが、国にはそのような延期に対応できる。零細企業にはすぐに手続きに対応する能力はないかもしれないので、負担を負える方に回すべきだ。そして、登録などの簡潔化も重要だ。営業の内容は例えば塗装や園芸であれば、事業主には専門的な知識や技能はあるものの、事務的な手続きは苦手である可能性は認めなければならない。そのような人にも手続きをきちんと完成するような環境は必要だ。そして、提供種類にはミスがあれば、それは種類の分かりにくい表現などを原因とすれば、責任を行政側に置いて、事業主に有利な方法で解決するのは原則だ。

もちろん、税金をちゃんと納めなければならないし、安全の基準を満たさなければならないが、そのことを確認する責任も、行政側に課すべきだろう。つまり、管轄する行政機関には、その地域の状態を見て、企業が新しく立ち上がったら、公務員を派遣して、企業の事態を把握して、必要な基準や手続きを教えること。要は、事業主には手続きなどを把握する義務を課さないことだ。安全管理の基準は重要だから、すぐに満たしてもらわないと一般の人は困るが、飲食店を開く人は必ずしも飲食店の法律に詳しいとは限らない。だから、積極的に行政側からの知らせなどを行うべきだ。

一方、事業主が事前に行政に申し出れば、起業についての助言を提供するべきだ。

このような体勢には予算は必要だから、すぐに実現されるとは思えないが、起業することは簡単であれば、経済の活性化も見えるのではないかと思っている。

妄想と成長

自分の能力や将来について現実的な意見を持った方が良いとよく言われるが、私は疑問を抱く。誇大妄想の方が良いのではないか、と。

先ず以て、誇大妄想を抱くと、失敗する可能性は高くなるのは確実だ。自分の能力を超える計画と取組めば、成功させるはずはなかろう。それでも、できないことを目指した方が良いかと思う。

なぜなら、できることに目標を絞れば、今できる範囲を超える希望がなくなるからだ。今までできたことを繰り返して、これしかできないような考え方が固まる。一方、それを超越する的を目指せば、新しい能力を鍛えるかもしれない。成長するために、今できないことを目指さなければならない。成長と言うのは、今持っていない実力を身に付けることとか、知恵を増すことなどを指すのではないか。

反論が予想できる。「これは誇大妄想と大きく違う。現実的に獲得できる技能を目指すのは適切である」と。聞いたら、説得力があるのは否めない。それでも、間違いであると確信する。

説得力は、否めない極端な場合から発生すると思う。今すぐに力を遥か超えることを試したら、失敗に終わる事実だ。私はそらを飛べるようになりたかったら、今窓から飛び出したら、落ちて大怪我をする。それは確かによくない。だから、現実の把握はある程度必要だ。

しかし、最終的な目標は、空を飛ぶこととか、月に住むこととか、死者と話すことなどを目指したら良い。江戸時代の人間であると思ったら、この三つは無理であると思うだろう。死者と話すことは可能かもしれないが、飛ぶとか、月に行くなどはあり得ない。現在であれば、空を飛ぶために、飛行士の免許を取れば良い。自分で操作しなくても良かったら、ただ単に切符を買っても良い。簡単なことになった理由は、無理な夢を抱いた人が頑張ったことだ。月に住むことは、方法は一応分かるが、実現するために多くの努力だけではなく、重要な発明も必要とされる。死者と話すことは完全に無理だお言われるので、方法探しには苦労は付くだろう。

つまり、行き先は無理のように見えるので、それに向かって可能な道を探す。

失敗することは多い。殆どの人は失敗する。しかし、目的地に至らなくても、重要な発見があることも少なくない。そして、発見はそれほど重要ではなくても、自分の技能が磨かれ、成長することもある。とは言え、完全に失敗に終わることも認めなければならない。

だから、失敗を認めるのは重要だ。失敗を回避すれば、成長も回避してしまう。社会的にも、妄想を追って人生を費やした人を軽蔑するべきではない。失敗したが、旅立ちの時点で失敗に終わるのは予想できなかった。仮に成功に終わったとしたら、偉大な業になっただろう。だから、理不尽なことを追う人を批判しない。このような誇大妄想から社会的な利益が生まれる。