介護をする人の資格について最近考えてきた。介護に携わるのは、大変な仕事である。先ずは、体力的な負担は多い。自分で簡単に動けない人を動かすために、体力はなければならない。そして、怪我させないようにいつもゆっくりと優しく動かせなければならない。必要な物は自分で持たないので、あちこち走り回って、日用品を身の回りに整える。食事の準備だけではなく、食べさせることもある。体力が問われるのは明らかだ。
しかし、それだけではない。精神的な負担も大きい。毎日毎日、休まずにその人の面倒を見なければならない。親が子供の面倒を見ると同じように、放置するわけにはいかない。そのような連続する圧力は、鬱病や反発を招く。それでも、文句を言えば、冷たい人として批判される可能性は高い。自分の親の介護であれば、さらに不孝な子として強く批判される場合もある。配偶者であれば同じだ。だから、自分の負担を理解してくれる人は少ないので、一人で担うことになって、精神的な負担がさらに増える。
まだまだある。知識も必要だ。慈愛だけは足りない。慈愛から活動しても、その動作は間違っていれば、人のためにはならない。そして、介護が必要になった人には、常識と違う需要がある場合もある。食べ物の種類、頻度、時期などには変動があるし、体や心を守るために、どうすれば良いか分からないと、何もできない。
体力、精神力、そして知識が揃う人は介護士に相応しいが、さらに要求される資格がある。それは心だ。
介護が必要な方は、自分の面倒をみることができなくなった。それでも、まだ人間であるし、自分の意志もある。だから、人間として尊敬しなければならない。まだ元気な人であれば、その人には自分の生活を任せても良いが、介護が必要であれば、そうできない。外から生活のリズムに干与しなければならない。
その問題は、必要な援助を捧げながら、相手を軽蔑しない態度だ。必要な手伝いを提供しなければ、相手は困るが、不要な手伝いを勝手に押し付けたら、相手の気持ちに傷をつける。この両方を避けるために、慈愛の心も必要だが、判断力も必要不可欠だ。
先生の立場も似ている。相手は先生の知識や指導を必要とするが、自分で簡単にできることを詳しく指導してしまったら、相手が上達しないし、気分も悪くなってもう指導からはなれたくなる。
先生も、介護士も、他人のために働く役目である。そのように他人を支援しようとする仕事は少なくないが、何であってもこのような精神は重要な資格である。相手に必要な支援を提供しながら、相手の人間性を尊重する。このようなことを考えれば、社会的に介護士を尊敬するべきであると言えるのではないか。現在なら、ちょっと欠くような気がする。