離島の子供

数週間前だったと思うが、テレビでドキュメンタリーの一部を見た。その話題は、ある離島から最後の子供が出ることだった。小学生だったが、家族が別なところへ転居することにしたようだった。

そのことで、島には子供が一人も残っていない。その状態であれば、子供を持つ家族が島へ転居する可能性が極めて低くなる。島民の過半数は60歳以上だったようだから、30年以内無人島になってしまうのではないかと思える。

一般島民から見れば、これは悲劇であろう。祖先から受け継がれた生活は、自分の世代で終わるなど、遺憾に思うだろう。

しかし、子供の親の立場から考えれば、転居するしかない。子供には友達はいない。他の子供と会うことはできない。中学生になったら、別の島で学校に通うはずだから、その時に備えて新しい環境に住み着いた方が良いと思える。子供はいない環境は、子育てには良いとは言い難い。

公の立場から、共同体の立場から見れば、子供が島に残った方が良い。

私の立場から、親の立場から見れば、子供が他の子供がいる場所に育った方が良い。

この場合、親が私を公より優先しなければならないのは言うまでもなかろう。

単純に指す

最後に取り上げたい問題は次の通りである。ある物を見て、「ねこ」と考えたが、実は狐だったという場合で、その「ねこ」の考えは、どうやって狐を指したのか。

物によって引き起こされたのは確かだが、引き起こしのみで何を指すかを決めれば、問題が沢山ある。それは、この理論の出発点になっていた。しかし、考えの予測を組み込めば、狐は指せないのだろう。つまり、間違える余地を拓いたが、その間違いはあの物の本質を間違えることではなく、架空な物について話すこととなる。考えが狐を指さないと、何も指さない。何も指さないと、架空な物について考えている。

しかし、目の前にあるものについて考えているはずだ。

これは本当に問題だが、解決するために、同じ方針が取りたい。

猫を狐と思ったら、間違いはあるけれども、それほど多くない。小さな哺乳類の動物であるので、その共通点に基づく予測は当たるだろう。だから、猫の特徴について間違えたが、きちんと指せたと言った方が良い。

考えの予測が物から離れると、その物について考えているかどうかが曖昧になると思う。例えば、あるところにちらっと見て、岩があると思うとしよう。実は、猫だ。その猫が去るが、犬が同じ場所に座り込む。そしてまた見て、岩はまだあると思う。では、この「いわ」の考えは、何を指しているのだろう。猫だろうか、犬だろうか。両方だろうか。この答えはすべて難しいかと思う。だから、結局、架空なものであると言い切れるかもしれない。ものが確かにあったが、間違いは根本的すぎて、その存在してるものについて考えているとは言えない。つまり、予測も引き起こしもある程度沿わない限り、考えが何を指しているかは言えなくなる。

その上、とても簡潔な考えも可能だと思う。「これは、存続する一つの物である」ということだけで、考えを設けることはできると言いたいのだ。そうすれば、一つの存続する物が同じ考えを引き続き起こしたら、考えと物の絆はできている。しかし、それほど特徴は曖昧で、区別できなくなる可能性は高い。区別できなくなると、別な物が引き起こしてしまうが、その時点で何を指しているかが曖昧になる、理論が説明する通り。

最後の最後は、言葉の意味。言葉は、ある考えを引き起こす。言葉が指す物は、その考えが指す物である。言葉と考えの絆は、因果関係だけである。言葉自体は、物を指す力はない。考えの力を借りて、意味を持つ。

この理論はもちろん完成ではないが、ここでこの投稿の連載を終わりとする。明日から、別なテーマを取り上げるつもりだ。

意味の2次元

やっと、意味の理論を説明するための準備はできている。2次元は、因果関係と予測である。
理想的な状況は下記の通り。

物を見たら、その経験がある考えを引き起こす。引き起こされた考えは、見た物の展開を正しく予測する。そして、見えなくなったら、考えでいつ現れるかは、予測できる。こうなったら、その考えがその物を指す。

間違いがある証拠は、予測が外れる現象だ。予測が外れたかどうかは、自分で判断できるので一人で見る現象でも問題はない。では、外れたら、どうする?

選択肢がある。一つは、引き起こしを否定することだ。つまり、その物を考えの範囲から排除する。そのものは何であるかは間違えた、という結論だ。例えば、ある動物が川に飛び込んで泳いだら、「猫ではなかった」と判断することだ。

もう一つは、考えの予測を修正することである。ある猫が川に飛び込んで泳いだら、「猫は泳げない」という予測を修正する。

どう決めるかは、簡単な場合はある。特に、物をもう少し見たら、別な考えが引き起こされ、そしてその考えの予測が合えば、最初の猫の引き起こしは間違いだったと判断するだろう。その後の考えは、理想的に合っているので、否定する意味はない。一方、物を良く見て、猫との考えが引き起こされ、そして予測は大半合っているが、詳細なところで微妙にずれたら、もちろん予測を修正する。

その間の場合、どう決めるかは難しい。自分の考えがなるべく役に立つように決めたいが、今「なるべく役に立つ」を具体的に特定できる。

私たちが生きている世界に存在する物は、視覚や他の感覚で分かる。つまり、周りの世界に存在するものは、頭の中で起こされた考えであると思う。そして、世界はどう展開するかは、頭の中にある考えの予測に基づいて判断する。そして、生き方、例えば落ちてくる巨岩を回避する方法をこの判断に基づいて決めてしまう。だから、「なるべき役に立つ」というのは、生き残れることとか計画を実現できることなどを指す。これは、抽象的な哲学的な目標ではなく、具体的で日常的な目標である。

だからこそ、一旦間違えても、また考え直して意見を改めることもできる。そして、二つ以上の選択肢を同時に試してみることも可能だ。「この物は猫か、岩か、それとも猫にはじっとする能力があるか」のように、範囲を限定すれば同時にできる。この修正には、他の人との相談は不要だから、一人で新しい現象と出会ってもできる。一方、他の人と相談できれば、より早く解決できるし、より広い経験に基づいて考えを築くこともできる。

では、次回重要な問題と取組んだら、この連載が終わるだろう。

理解と予測

考えや言葉の意味を解明するために2次元の理論を提唱すると言ったが、その2次元の一つは因果関係である。つまり、一つは考えを引き起こす物である。もう一つで問題を解決したいと思う。

そして、そのもう一つの次元は、私の博士論で提唱した理解の理論に基づくので、私の理解についての持論を紹介する。

この理解は、文章を理解することではなく、物を理解することを基本とする。例えば、パソコンを理解するために、何が必要であろうか。(パソコンはそもそも理不尽であると思う人もいるだろうが、私はそれより楽観的である。)論文は英語で8万語程度だったので、この投稿ですべての内容を説明できるはずはない。従って、要点を紹介して、その根拠となる証拠などを省略する。

簡単に言えば、物を理解すると、その物の将来の展開は予測できる。現状が続く場合に限れば、理解は弱いが、まだ理解であると言いたい。一方、いい理解を持つために、状況が変わっても正確に予測できる能力は必要だ。そして、正確性も細かさも重要である。完璧な理解は存在しないが、仮に描写すれば、何の状況に入っても、その物がどう展開するかは正確で細かく予測できる能力だ。

このように言えば、すぐに反論する人はいるだろう。「予測できるが、なぜそうなるかが分からなければ、理解しない。ただの機械的な予測にすぎない」と。論文でこの問題とより細かく取組んだが、間違いだと思う。なぜなら、物がなぜこう展開するかは分からないと、予測できない状況は多いからだ。単純に予測できないケースもある。例えば、時計の針がなぜ回るかは分からなければ、時計が蜂蜜に浸かられたらどうなるかは言えないだろう。それとも、「回る」と言う。時計の歯車の動きなどが分かると、蜂蜜に浸かれると動かなくなることは予想できる。では、油に浸かられたらどうかと聞かれたら、動くのではないかと答えられる。油が歯車の動きを妨げないからだ。このような予測は間違っている可能性があるが、予測するために「理解」は必要である。別な例を考えよう。ある人が毎日仕事に通うとしよう。普通の平日であれば、行動は予測できる。しかし、その人が宝くじに当たって、億万長者になったら、仕事に通うかと聞かれたら、答えられない。お金を稼ぐために通っているなら、辞めるに決まっている。一方、仕事のないように深い関心があれば、辞めないだろう。

つまり、多様性のある場合で予測するために、「理解」は必要である。

このような理解はなぜ人間と言う動物に役立つかと言うと、明白だ。世界で行動すれば、周りの物や人の反応を予測することは重要であるからだ。

しかし、そうするために、この理解がある物を指さなければならない。そうしないと、何の理解であるかはさっぱり分からないからだ。この「理解」は、今までよく取り上げた「考え」であると思う。だから、この考えはどうやって物を指すのだろう。

2次元である。一つは因果関係で、もう一つは予測である。次回、詳細を説明する。