疲れてくると憤りが湧いてくる。
この怒りは、対象を探る。頭の中で怒れる人の候補を挙げて、怒ったら会話がどうやって展開するかを予想する。家族、同僚、ネット上の知り合い、一般的な政治などと関わる人。
この怒りはもちろん適切な憤慨ではないので、表さないのは当然だと思う。それでも、感じるのは事実だから、否定できない。だから、どこから発生するのだろう。仮説がある。
その疲れてきた時点では、人生への不満がある。特にやりたいことはなかなか思うままに進まない今は、疲れてきたらそういう不満を強く感じる。例えば、Kannagaraの開発はほぼ挫折されているし、江戸時代の女性教育書の翻訳も問題なく進んでいるとは言えないし、編集の仕事でも遅れているし、英語のレッスンの数はちょっと足りない状態だ。一つずつ考えれば大した問題ではないし、過程の途中で必ず発生することだとも言えるので、心配するほどではないとも言える。それでも、不満を感じるのは当然だろう。
そして、不満を感じたら、誰かのせいにしようとする傾向は、人間には強いようだ。社会を見たら、このことは多い。好ましくない状況が発生すると、誰かが悪いと言いたくなる。「福島第一原子力発電所の事故の主な原因は人間の失敗だった」と言えるほどだ。(明らかに違う。どう測っても、主な原因はマグニチュード9.0の地震と巨大な津波だった。人の失敗が悪化させたといえども、主な原因であると言ったら、事実と大きく反する。)
感じている不満は誰かのせいであれば、その人を怒るのは当然な反応だ。
しかし、私の場合、悪い人はいないことは分かる。不満の原因が分かるし、その原因は周りの人のせいに、自分のせいにもできないこともちゃんと把握している。だからこそ、頭の中でぐるぐる回る。怒っても良い人を探したり、そして怒る理由を探したりするからだ。見つかったつもりで喧嘩の展開を思わずと言って良いほど無意識で描く。その憤慨源は本当の問題と全く無関係であるのは言うまでもない。だからこそ表現できない。
怒ったら、余計に問題を悪化するにすぎない。怒鳴らないなら、そもそもの問題のみだが、憤ったらさらに砕いた人間関係の問題が加わる。解決策ではない。
解決策は二つある。一つは疲れを取り除くこと。もう一つは、不満の原因となる状況を払拭すること。
確かに、むやみに怒った方がやり易い。他の人の責任にした方が楽。この怒りは、感情の逃げ道であるといえるだろう。それでも、その方向に向かって逃れることできないので、本格的な解決策と取組むしかない。
冷静で。