先ず以て、「私有場」は日本語であるかどうか、疑問を抱く。しかし、タイトルで趣旨を短く表すために使わせていただいた。私有場というのは、このブログのような場所である。コメント欄があるので、誰でも意見を述べることはできるが、公の場ではない。私のブログだ。
このような場では、表現の自由を尊重する義務はないと言われている。表現の自由というのは、政府や国家の干与を禁じるが、市民が自分の管轄する範囲内ある表現を禁じてもかまわないという主張だ。例えば、表現の自由があるので、人種差別的な発言を法律で禁じることはできない。(ヘイトスピーチは難しい問題だが、先日それを論じた。)一方、私はこのブログのコメントで「白人は馬鹿者」とのコメントを削除しても、表現の自由に触れないと言えるのではないだろうか。私の自由もあるからだ。
確かにそれはそうだ。言論できる場を所有する人には、その場での言論の内容を制限する権利があると言わざるを得ない。問題に見えない例として「このブログのコメント欄で、投稿と関係あるコメントしか認めない」とか「迷惑コメントを削除する」などの制限がある。同じように、好ましくないと思う意見を禁じたり削除したりする権利もあると思う。根本的な自由は、自分の人生の計画を立てて実現しようとする自由だから、ブログを設けて、そのブログで投稿についての議論を促すことは許すべきだ。無関係なコメントを削除するのは、その一部だ。
人種差別的な発言をする権利もある。それは表現の自由の基本だ。批判される発言をする自由は表現の自由の重要な部分だ。権利がある物の、その権利を活用する人は、私は尊敬しない。むしろ、批判する。人種差別は悪質な態度だから、焼滅させるべきだ。批判する方法は場合によって違う。強く正面から批判する場合もあるが、優しく問題を指摘する場合もある。目標は、自分の正当性を強調することではなく、人種差別を減らすことであるからだ。それでも、抗議する方針には変わりない。
同じように、私有場で表現の自由を制限すれば、批判することは多い。表現の自由を尊重しない行為であるからだ。確かに、人種差別よりややこしいケースだ。例えば、神道について論じるために場を設ければ、ガンダムについて論じる人を注意するのは当然だろう。それでも、選んだテーマについての意見の一部を禁じるのは良くないし、批判するべきだと思う。例えば、神道についての掲示板では、神道は悪質で軍国主義の表しである意見を禁じるべきではない。神道についての意見であるので、論じた方が良い。つまり、意見交換するテーマを選ぶのは妥当だが、そのテーマについてすべての意見を聞くべきだ。
この方針を遂行すれば、確かに嫌な気持ちを起こす主張とぶつかり合うが、それは言論の自由を尊重する社会で生活する側面の一つだ。言論の自由の利益は、異なる意見の交換やぶつかり合いにあるので、そのような投稿を許したら、自分の意見が磨かれるはずだ。
確かに難しい場合がある。例えば、ある団体が神道の掲示板のすべての投稿のコメント欄や返事欄には数十回「神道は軍国主義で、人殺しの宗教だ」との投稿をしたら、掲示板は事実上使えなくなる。このコメントを無視すること自体は、面倒になって、他の人のコメントを見つけることさえ難しくなる。このような問題の対策は必要だが、ある意見を禁じることは窮地に陥れた場合の必要悪として考えるべきである。
言論の自由の一部として、嫌な意見を聞かない権利もある。しかし、それは差別的な意見を言う権利と同じように、周りの人が評価する行為ではない。