言語の哲学

昔々、私は哲学者だった。修士号の取得はもう20年前のことだから、本当に昔々のように感じる。それでも、哲学から完全に手を離していないし、興味もまだ持っているので、この場を使わせていただいて、ちょっと哲学のことを書く。哲学について書く経験は、英語ばかりだから、この話題の投稿はいつもより分かりにくくなるのではないかと思うので、ご了承ください。

今回、言語の哲学について書きたいと思う。言語の哲学の基本問題は下記の通り。

言葉は、どうやって物を指すのか。

哲学の他の難題と同じように、一見で馬鹿な質問に見えるだろう。言葉は物を指す。それは言葉の本質だ。物を指さない言葉って、何だろう。しかし、私が知っている限り、「じゅふてばぼう」は何も指さない。この音は、なぜ言葉ではないのだろう。そして、「ねこ」という言葉を考えよう。猫を指す。英語で「cat」、フランス語で「chat」、そしてラテン語で「felis」であるが、なぜこの異なる言葉が同じ動物を指すのだろう。

ある民族が言語を決める、と言いたくなるが、そう言っても問題がなくならない。何を決めるだろう?言葉はどうやって物と繋ぐのだろう。ここで「言葉」と言うが、頭の中の考えも同じだ。(実は、私は考えは基礎で、言葉は考えに基づいて物を指すと思う。)だから、「「ねこ」は猫を指す」と決めるために、問題を解決しなければならない。そうしないと、第二の「ねこ」は何も指さないからが。

別な方向から考えれば、考えは何かについての考えになるために、何が必要なのかとの問題だ。例えば、私の指は何かについての指であるわけではない。指には意味はない。ただの物理的な物である。そして、紙で墨で形を描いたら、その形は何かについての形ではない場合は多いのだ。一方、言葉を書いたら、何かについての形になっている。何が変わるのだろう?絵であれば、似ている物についてになると言えるだろう。例えば、北川景子さんの似顔絵は、北川さんについての絵になるかもしれない。それでも、言葉は物に似ているわけはない。漢字でも、形として似ている例は非常に少ない。それに、「口」は口に似ているとはいえ、太陽にも窓にも似ているので、特に口を指すとは似ていることを根拠として言い難いだろう。

考えたら、これはまるで魔法かのように感じてくるが、実は魔法の歴史を見れば、言葉や名称には魔法的な力があると信じられることは多い。日本と言えば、言霊だね。しかし、理解の立場から考えれば、「魔法だ」と言っても、理解に至らない。

つまり、言葉と物の絆を解明しなければならない。

この絆について、哲学者の間でよく掲げられている候補があるが、私もこの候補は強いと思うので、次回、それについて説明する。


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