哲学者が言葉と物の絆として掲げるのは、因果関係である。つながりの詳細は、哲学者によって違うのでこの投稿で、私が提唱する理論を描写する。一般の理論と似ている点は多いし、独特の点は普通の範囲内であると言えよう。
先ず、頭の中に考えがある。思考の役割の一部を担う存在だが、今目線を当てる考えは物を指す考えである。具体的に言えば、猫や木、石や川のような物を指す考えだ。「懐かしい」とか「無限」などのような言葉の意味を解明するのはさらに難しいだろうが、見たり触ったりすることができる物を指す言葉の問題は充分難しいので、この点から始めたいと思う。
理論の形は比較的に簡単だ。物と接したら、その考えは頭の中で引き起こされる。例えば、猫を見たら、猫を指す考えが引き起こされる。そして、「ねこ」という言葉を聞いたら、同じ考えは引き起こされる。逆に、考えが引き起こされると、言葉の「ねこ」が思い浮かぶ。簡単に言うと、言葉が指すものは、言葉が引き起こす考えを引き起こす物であると言える。
この理論には、因果関係が絆となるので、関係の本質は特に問題にならない。因果関係を解明するのは難題ではあるが、複数の分野を亘って使われているので、言葉の意味を説明するために使ったら、説明しなければならない概念が少なくなる。つまり、言葉の意味と因果関係は全く無関係であっても、因果関係を説明しなければならないので、言葉の意味を因果関係に基づいて説明できたら、因果関係を説明すれば言葉の意味も分かる。その上、因果関係が存在するのは常識に近い。脳の働きは物理的だし、目に当たる光線が脳の中で何かの動きを引き起こすことを疑う余地はもうない。この関係は存在するので、この関係で言葉の意味を説明できれば、謎が増えるはずはない。(言葉の魔法で、言葉の意味の謎の代わりに魔法の謎が現れるので、説明になるかどうかは疑わしい。)
そして、言葉がどうやって国によって違うかというと、説明できる。つまり、猫を指す考えを引き起こす言葉は、国によって異なるからだ。ある言葉を聞いたら、何の考えを引き起こすかは、幼い頃に学ぶが、物は同じであっても、言葉は違うので、言語も違う。その上、学び方の詳細は不明であるとは言え、大まかに理解できる。物を見たら、その考えが引き起こされる。同時に該当する言葉を聞けば、その言葉を考えと繋ぐことはできるはずだ。同時に起こることを頭の中で繋ぐのは、人間の脳の働きの基本的な動きの一つだ。
ちょっと指摘したい点だが、この理論は唯物論と霊魂論の間に中立てきである。霊魂論の場合、霊魂がどうやって物理的な世界と因果関係を結ぶかを説明しなければならないが、それは霊魂論の基本問題の一つなので、新しい問題にはならない。
それでも、この理論にはまだ問題がある。次回、その問題を紹介して、私の解決論を説明する。