言葉と物の絆の問題

前回、因果関係を言葉と物の絆として紹介したが、最後に問題があると指摘した。この問題も、哲学者の間によく知られているが、ここも私の独自の立場から論じる。

考えが指す物は、その考えを引き起こす物であると言った。この点で、深刻な問題は二つある。

一つ目は、多くの言葉は一つの物を指さない。「チャート・デイビド」は私を指すが、「ねこ」はすべての猫を指す。考えも同じだ。私の猫についての考えは、すべての猫を指す。それは、私が生まれた前に死んだ猫も含む。ただし、私が会っていない猫は、私の考えを引き起こすわけはない。その猫との因果関係は一切ない。だから、私の考えは、私が出会った猫しか指さないだろう。少なくとも、それは一般に思うことではない。特に問題になるのは、明日会う猫のことだ。その猫は、今日指されないのに、明日指されるようになるのだろう。言葉も考えも、そのような仕組みであるはずはない。

もう一つの問題は、言ってもたらさらに深刻である。それは、間違いが無理になる問題である。

人間は間違えられる。それは議論にならないだろう。たまに、犬を見て、猫であると思ってしまう。日常的な経験だろう。しかし、この理論が正しかったら、そういう経験はない。

考えは、その考えを引き起こす物を指す。その考えの意味は、引き起こす物である。だから、ある動物が「ねこ」の考えを引き起こせば、その動物は猫である。「ねこ」の考えの範疇に入る。

この問題を把握するのはちょっと難しい。「だって、犬じゃん」と反論したくなるからだと思う。しかし、この理論で、考えや言葉がどこから意味を得るかという問題を論じていることは忘れてはならない。例えば、検定試験で70点を得点すれば合格であると定義したら、60の設問の答えが分かった人が、40設問でただ無作為で選んで70点を取得したら、合格する。「本当に70点ではない」と強調しても、変わらない。定義を満たすので、合格する。実は、運が大変良くて、何も分からずに無作為な選択肢で70点を取得する人も、合格する。確率は確かに大変低いが、可能性がある。何も分からない人が合格するのは本音ではないとはいえ、合格するかどうかは定義によって決まる。

この問題は同じだ。ある物は「ねこ」という考えによって指されるかどうかは、この因果関係の理論で、その物が「ねこ」という考えを引き起こすかどうかで決まる。引き起こせば、「ねこ」という考えに指される。「ねこ」という考えが指すものは猫だ。これは「言葉の意味」の意味だ。だから、間違えることはできないようだ。岩でも「ねこ」だと思ったら、猫だ。

もちろん、そうではない。理論には問題がある。次回は、解決論について論じたいと思う。


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