解決に向けて

岩が猫になってしまう考えの意味の理論の問題の解決論として、最初に思い浮かぶのは類似論だろう。この論というのは、考えが引き起こす物の内、類似する物を指すと言う理論だ。岩は、猫に似ていないので、岩は指されない。しかし、これは解決にならない。

分かり易い理由として、引き起こす物の多様性がある。上記の例では、引き起こす物には猫も岩もあるので、確かに似ていない。しかし、どちらの方を選ぶべきかは、ちょっと難しい。両方は引き起こすので、それは区別する基準にならない。目立つ選択肢は二つだろう。

一つは、民主主義に基づくことだ。つまり、考えが指す物は、引き起こす物の過半数を占める物である。少数派は間違いになる。岩の例をすぐに片付ける。岩を猫に勘違いすることはそれほど頻繁な現象ではないので、猫の方が多いはずだ。

しかし、この解決論には問題はまだある。先ずは、ぬいぐるみの猫は多い町を思い起こそう。そのような町で、ぬいぐるみと猫をよく勘違いするだろうし、過半数がぬいぐるみになる可能性さえある。それでも、その町に住んでいる人は、「ねこ」の考えでぬいぐるみを指さないと思える。同じように、猫を区別することは大変下手である人を考えよう。この人は、犬、羊、狸、狐、烏でも猫として捉えてしまう。物の過半数を占める動物はないし、一番多い動物も猫ではない。それでも、この人の考えは猫を指すと言いたくなる。

このような問題に対応するために、過半数ではなく、最初につながった物に似ている物が指されるという理論もある。つまり、「ねこ」という考えを制作した時点で、猫によって引き起こされたら、猫を指すことになる。しかし、これも問題になる。一回目だけは狸だったとして、それから猫ばかりだったら、この考えは実は猫を指すと思うのは当然だ。早めに引き起こしたものと過半数の物の基準を交えようとすれば、比重が問題になる。

これで、周りの人の導入する理論は多い。岩の例に戻ろう。私の立場から、そして夕暮れ時で、岩が猫に見えるので、「ねこ」の考えが引き起こされる。しかし、他の角度から見る人も、別な時間に見る人も、岩であることはよく分かる。私の目的は、周りの社会と同じ物を指すことだから、この岩について「ねこ」を考えるのは間違いであると言えよう。この解決論は、よく間違える人の問題も解決できる。周りの人は、猫を区別することは一応できるので、この人が周りの人の判断と違うので、間違いであると言える。

このような社会的な解決論には力があるので、人気でもある。しかし、私は賛同出来ない。問題は二つある。一つは、社会にも意見が分かれる場合もあることだ。社会の半分は「ねこ」を猫によって引き起こされ、半分は「犬」に引き起こされたら、どうする?一つの提案は、この場合言語は実は二つあるという解決だが、社会ではそういう認識はない限り、ちょっと言い難い。しかし、より深刻な問題は一人での発見だ。ある人が一人で新しい動物を発見したと言えよう。その動物について考えられるはずだ。「あれは、一体、何だったろう?」という疑問は最低限だ。考えるために指さなければならない。ただし、助けになる周りの人はいないので、指せるかどうかが曖昧になる。実は、指せないと強調する哲学者もいるが、私はその強調は明らかに間違っていると思うので、別な解決を探したい。

引き起こす物の多様性は充分問題になるが、類似論にはまだもう一つの深刻な問題が残っている。その問題は、次回論じたいと思う。


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