単純に指す

最後に取り上げたい問題は次の通りである。ある物を見て、「ねこ」と考えたが、実は狐だったという場合で、その「ねこ」の考えは、どうやって狐を指したのか。

物によって引き起こされたのは確かだが、引き起こしのみで何を指すかを決めれば、問題が沢山ある。それは、この理論の出発点になっていた。しかし、考えの予測を組み込めば、狐は指せないのだろう。つまり、間違える余地を拓いたが、その間違いはあの物の本質を間違えることではなく、架空な物について話すこととなる。考えが狐を指さないと、何も指さない。何も指さないと、架空な物について考えている。

しかし、目の前にあるものについて考えているはずだ。

これは本当に問題だが、解決するために、同じ方針が取りたい。

猫を狐と思ったら、間違いはあるけれども、それほど多くない。小さな哺乳類の動物であるので、その共通点に基づく予測は当たるだろう。だから、猫の特徴について間違えたが、きちんと指せたと言った方が良い。

考えの予測が物から離れると、その物について考えているかどうかが曖昧になると思う。例えば、あるところにちらっと見て、岩があると思うとしよう。実は、猫だ。その猫が去るが、犬が同じ場所に座り込む。そしてまた見て、岩はまだあると思う。では、この「いわ」の考えは、何を指しているのだろう。猫だろうか、犬だろうか。両方だろうか。この答えはすべて難しいかと思う。だから、結局、架空なものであると言い切れるかもしれない。ものが確かにあったが、間違いは根本的すぎて、その存在してるものについて考えているとは言えない。つまり、予測も引き起こしもある程度沿わない限り、考えが何を指しているかは言えなくなる。

その上、とても簡潔な考えも可能だと思う。「これは、存続する一つの物である」ということだけで、考えを設けることはできると言いたいのだ。そうすれば、一つの存続する物が同じ考えを引き続き起こしたら、考えと物の絆はできている。しかし、それほど特徴は曖昧で、区別できなくなる可能性は高い。区別できなくなると、別な物が引き起こしてしまうが、その時点で何を指しているかが曖昧になる、理論が説明する通り。

最後の最後は、言葉の意味。言葉は、ある考えを引き起こす。言葉が指す物は、その考えが指す物である。言葉と考えの絆は、因果関係だけである。言葉自体は、物を指す力はない。考えの力を借りて、意味を持つ。

この理論はもちろん完成ではないが、ここでこの投稿の連載を終わりとする。明日から、別なテーマを取り上げるつもりだ。