夫婦の法的な基盤

家族といえば、どこから始まるかは問題だ。親子の関係を基本とするか、夫婦の関係を基本とするかは、定かではない。ここで、夫婦の関係から始めたいと思うが、親子の関係は同等に重要だ。

夫婦の理想的な関係は何だろう。日本的に考えれば、教育勅語を引用したも良いだろう。

「夫婦は相和し」

イギリスでもこの考えに異議する人は少ないと思うので、理想として認めよう。具体的に言えば、愛し合ったり、助け合ったり、支え合ったりすることだ。しかし、これは法律で拘束できないことの典型例である。「配偶者を愛しないと、懲役3年以下、または千万円以下の罰金」のような定めは実行できない。個人主義の考えに基づけば、この事実を見て、夫婦の関係には法的な中身を与えないことにするが、ここで団体を重視する法律を考えているので、何かを発想しなければならない。

すぐに思い浮かぶのは、経済的な関係である。経済的なことはよく法律によって制限されるので、前例として参考にできることは多い。

原則として目指すことは、夫婦の財産を共有する状況にしよう。その形は、ちょっと複雑にする。

まず、債務は、二人とも責任を持つこととする。片方が契約を結んでも、二人に返済義務が発生する。そして、保証人と同じように、二人には全額を返済する義務がある。それでも、債務は一人の名義になることは基本にする。

同じように、財産は一人の名義になるが、双方は使える。例えば、銀行口座であれば、身分証明書を持って銀行に行けば、引き出しはできる。名義人が申請すれば、ATMカードを発行してもらう権利も法律で定める。名義人ではない人は、自分でクレジットカードなどを申請することはできないが、銀行に訪れたら、お金を下ろせる。

最後に、夫婦はお互いに窃盗はできない。片方の私有物は、他方には完全な権利を持っているからだ。金庫も同じだ。金庫の内容は、本人だけではなく、配偶者も見たり出したりすることはできる法律になる。

もちろん、このような権利を相手に与えるために、信頼関係は必要不可欠だが、そのような信頼関係はないと、結婚しないほうが良いのではないか。

財産や債務を一人の名義にする理由は、離婚のためだ。離婚は、二つの方法がある。一つは同意離婚。その場合、役所に財産と債務の完全な目録を提出して、自分の名義にあるものが自分のものになる。もちろん、役所に行く前に、交渉して、名義を正します。もう一つは一方離婚。その場合、資料を提出すると離婚になる。その時点で、自分は相手の名義の財産に手を出す権利を失う。そして、相手は、自分の名義の債務に対する責任がなくなる。その逆、つまり自分の名義の財産と相手の名義の債務は、家庭裁判所で割り振られる。ただし、離婚の時点の後で相手が契約した債務は、自分の責任に一切ならない。同じように、その時点の後で入手した財産は、相手は手を出すことはできない。

贈与税と相続税だが、優遇があるべきだ。例えば、夫婦の間の生前の贈与は、一年間千万円まで非課税とするとか、相続税も例えば一億円が非課税になるなど。この優遇を受けるために、贈与税でその年間の全てを結婚したままでしなければならないのは当然だ。同じように、相続税の控除が年間で増え、例えば5年間で全額になるなら良いだろう。

しかし、夫婦の関係はお金のことだけではない。実は、お金のことはそれほど重要な側面ではない。法律で、他の側面も支えられるだろう。それは、これからの投稿で検討する。

風邪

昨日、ひどい風邪をひいてしまった。熱が38.2度まで上がったので、朝一番に緊急な仕事を済ませたら、一日中ベッドに入っていた。休養したので、今日ちょっと元気になっているようだ。なんといっても、今日も一日中休むわけにはいかない。生徒さんが来るし。

ところで、昨日真由喜の友達が遊びに来た。ゆり子が心配していたが、私が和室で寝ていたことがわかったら、比較的に静かに遊んでくれたので、その間にも眠れた。やはり成長しているね。真由喜は、晩ご飯をベッドまで運ぼうとしたが、食べにくいので、起きて食べた。

だから、仕事ができるように、この短い投稿にする。すまない。

集団と義務

『神社新報』で「個人主義」と「権利強調」を憂える記事は少なくない。日本の伝統的な社会構成には、義務も集団も重視されていたと主張して、この変更は西洋の影響であるし、社会の崩壊を加速しつつあるとの趣旨もある。

私はイギリス生まれで、自由主義を提唱するので、的になる気分もある。それでも、考えさせられている。集団と義務も重要であるのは否めないので、社会構成に盛り込んだらいかがだろうかと思っている。それでも、自由主義はまだまだ基本であるので、条件がある。

第一の条件は、強制的に課す義務は他の人の自由を確保するための義務に限ることだ。殺人を禁じることなどはそうだし、社会福祉などを支えるための徴税もその例だ。それ以外の義務は、人が自由に担う義務になる。義務を一旦担っても、下ろせるべきだ。ある決断で一生縛られるのは良くない。一方、義務を担ったら、簡単に放置するわけにはいかない。その義務を果たして、それとも受け継いでもらう、又は義務の利益を受ける人に許してもらう必要がある。すぐに思い浮かぶ例は、子育てだろう。子供を育てることにしたら、義務が発生するが、子供が大人になるまでその義務を果たさなければならない。途中でやめてはならない。つまり、義務は自由に担うし、放置する条件も事前に考えなければならない。その放置は、なるべく可能にするべきだ。それは自由主義の影響だ。

そして、もう一つの条件がある。人が口で担う義務は、考える必要はない。果しても破っても社会全体は何もしないからだ。人が約束するのはよいことだが、普通の約束は、社会が関与しない。信頼関係の有無がその賞にも罰にもなる。一方、社会が法律で裏付ける義務や集団は、一般に論じるべきだ。だから、法律が関与する集団と義務について書くつもりだ。

法律が関与すれば、義務の本質には制限がある。その義務は、裁判で証明できること、そして裁判で命じられることでないといけない。例えば、また子育てを考えよう。子供を愛することはとても重要だ。私の考えは、それは親の一番の義務である。愛すれば、他の義務を自然に果たすし、失敗しても子供に大きな傷を与えることは少ない。(唯一の義務ではない。愛しても、間違った育て方で問題を起こすことはあるので、愛と知識は両方必要だが、愛しながら間違えば、問題がひどくならないだろう。)しかし、法律で愛を義務化できるまい。どうやって裁判で判断するのか。そして、判決でどう対応するか。裁判で「愛しろ」と言われても、愛するようになるはずはない。これは、法律が左右できないことだから、重要性を認めながら、人の良心に任せるしかない。

このことを考えるために、家族という団体から始めたいと思う。少なくとも、基礎的は団体の一つであるのは否めない。法的な制度をどうしたら良いかは、団体と義務を重視する立場から考えたいと思う。