公と神社

『神社新報』を読めば、神社の公共性を強調する記事とよく会う。その上、神社の目的は私的な祈りではなく、公的な祈りであると主張することは多い。昨今のいわゆる「神社ブーム」についての懸念は、参拝する人は自分の祈願に集中することであるようだ。公の要素を忘れていると言っている。

このような意向をどう考えたら良いのだろう。基本的な問題は、戦後の憲法で、神社は私的な施設であることだ。「公」を「国」と等しくすれば(そうする記事は少なくないし、この同視を明記する記事もある)、神社は公ではない。終戦前、公だったが、今は公ではない。だから、公を私的な欲望などより優先すれば、神社を捨てて、今でも公の場で貢献するべきであると言えるのではないか。もちろん、神道人はそのような考えに抵抗すると思えるが、それは人間が自然に自分の欲望を握るからだ。それに、神社を公とする動きも、公を変貌させようとする動きだ。日本のキリスト教の国家教会を設立しようとする人とあまり変わらない。

歴史を掲げても、そう簡単ではない。明治政府の神社方針でそれまで私物になっていた神社を公の物に強制的にさせた。長い伝統を持つ家柄を切り捨てたり、伝統的な祭祀を神宮でも塗り潰したりした。江戸時代以前の神道を見れば、私的な側面は強かったようだ。自分の祈願を神社へ持ち運んだ人は多かったようだし、国家の祭祀、例えば大祓などは、平安時代になる前に意味をなくしたようだ。(延喜式に載っている祈年祭の祝詞は、10世紀に記録されたものの大和の場所を取り上げる。平安京への遷都の時に、祝詞を修正する必要は感じられなかったと思えるが、理由としてもう執り行われていなかったことが思い浮かぶ。)江戸時代になったら、天皇の祭祀はわざと国家から切り離されたような印象だが、その時代についての研究はまだ不十分。

だから、神社は公の場であるという主張の根拠はちょっと不透明だと思う。一つの可能性は、戦前の政府の方針を当たり前とすることだが、そうであっても、本当の根拠は為さない。天皇との関わりであれば、歴史は確かに長いが、神道のごく一部に過ぎないことも明らかだから、私的なことを排除する根拠にはならない。どう考えても、「公」は「国」を指せば、現在の神社は公の場ではないことは決まっている。

では、どう考えれば良かろう。ただ単に「神社は私物だ」と言い放てば、重要な側面が見逃される。私の考えは、神社は個人の祈願の場所ではないことだ。つまり、自分の個人的な祈願は、神社の主な目標ではない。むしろ、共同体の豊穣や安泰、家族の絆や繁栄、会社の繁茂などの祈願は適切である。これを大きく考えたら、国の安泰と世界の平和も含まれている。世界平和を祈っても、それはまだまだ私的な祈りであると言わざるを得ないが、個人的な祈願ではない。同じように、共同体全体が豊穣を祈願すれば、私的な祈願だが、個人的ではない。

神社で、個人を単位として考えないのは基本と言えるだろう。単位は、共同体か、家族か、国か、世界か、色々あるが、絆を重視する。別な言い方にすれば、結びを重視する。このように考えれば、神社の歴史ではこのような結びは大変重要だったし、現代の個人主義に向き合える。神社は公な場ではないが、そもそも個人のための場でもないと言おう。


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