研究と可能性

今日の投稿で、前にも論じた話題に戻りたいと思う。それは、科学的な研究の助成金などの問題だ。

現在の科学研究は、国家からの助成金に基づいて進められている。例外はあるが、主にそうだ。国家のお金は、税金として住民から徴収されたお金だ。税金を納めないのは、気軽に選べる選択肢ではないので、研究を支援しなければならない。

これで、深刻な問題が発生する。自由主義を重視する社会であれば、住民から財産を徴収して、何かの目的に無理矢理使うことは慎重に考えなければならない。ただ単に「国会での法案は可決された」からといって、必ずしもそうしても良いとは限らない。例えば、国民の一部の権利を侵すプロジェクトを進めてはいけない。しかし、住民の財産を徴収すれば、それは実質的な自由を制限する。お金などが少なくなると、できることも少なくなるからだ。だから、税金の使い道を真摯に検討するべきだ。

できることは、住民の可能性を広げる事業である。このような事業に税金を使ったら、徴収と支出で住民の実質的な自由を増すので、基本的には問題はない。健康保険や社会福祉、教育、インフラ整備もこの範疇に入るので、行政の活動の大半は概ねこの根拠に基づくと言える。(実施の詳細についても真摯に検討するべきだが、基本方針には問題はない。)

科学研究は、長期的に住民の可能性を広げる。例えば、医学の研究のお陰で、抗生剤などがあって、病気で死なない人が多くなった。食物の研究で農業での収穫が多くなったので、餓死する人も少なくなった。飛行機の開発で、海外旅行が可能となったし、災害の場合の空からの救出も可能となった。パソコンの開発も、国家の助成金の研究に基づくことは多い。科学研究に出資しないと、このような可能性の広がりがなくなるので、国家は研究を支援するべきだと述べたい。

それでも、何の研究でも支援するべきではないと思う。国家の資産にさえ制限があるので、やったら良いことのすべてはできない。そのため、科学研究ではすぐに可能性を広げる研究を支援するべきだと思う。いわゆる基本研究は、民間の財団などの支援で行うべきである。市民から必要な資金は集まらなければ、その研究を止めるしかない。

これは研究者にとってちょっと厳しい話だろうが、研究者がやりたいことは、なぜ他の住民が支援しなければならないのか?私は、執筆により時間は割きたいが、収入のために働かなければならない。国家から執筆するために助成金はもらえない。研究の目的は「世界を理解する」こととか、「美しい事実を明白にする」ことなどであれば、私の執筆と根本的に変わらない。

それでも、可能性を広げる研究で、研究の可能性も広げる。現在、数十億円の資金が必要となる研究は、他の研究の成果で数千万円でできるようになることもある。顕著な例は、人間の遺伝情報を読み取ることだ。15年前に、一人の遺伝子を読み取るために、数十億円を支出したが、現在なら百万円程度でできるようになった。このように、粒子学の実験は、数百万円でできるようになる可能性もある。特に、核融合発電の研究で、粒子学の研究に役に立つ技術が開発される可能性は高い。その程度になったら、市民から必要な資金は集まるだろう。

つまり、国家が支援する研究には、中期的に市民の可能性を広げる可能性を孕むべきだ。ただし、その可能性の中で、より適応はなさそうな分野の研究を可能にする研究を含めさせるべきだ。長期的な展開も考えなければならない。


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