悲しい話について

先日、真由喜が悲しい絵本を読んで、泣いた。私は、悲しい話を読むと、泣かないが、楽しまない。それに、悲しい話は書きたくない。理由がある。

私の場合、話を楽しむために、登場人物と共感しなければならない。関心はなければ、なぜ読んでいるかがわからなくなる。だから、話が悲しくなったら、悲しみを感じる。登場人物は実在しないものの、悲しみは本当の感情だ。そして、悲しみは好ましくない感情である。なぜ、娯楽としてよくない感情に自分を晒されるのかと聞いたら、答えはない。

「現実の世界には悲しみは多いので、そのことを認めるべきだ」と答えるだろう。それとも、「小説で好ましくない現実を紹介すれば、人が現実の問題と取り組むようになる」とも。それはそうであろうと認めるが、それでも、私は悲しい話を読みたくない。現実の世界には悲しみがあることは、40年以上の人生でわかったし、それにいつもニュースを読むので痛感する。その上、現実の問題は、現実についての情報に基づいて把握する。小説は、話がよくなるために現実を歪める。それはフィクションの役割だから、小説を批判する根拠にはならないが、現実の問題について知識を得る方法としてはよくない。

それに、動き出すように刺激されても、フィクションの中の悲しみについて何もできない。もちろん、新しい話を作ることはできるが、もともとの話の悲しみを抹消するわけはない。現実は違う。一般人として全ての悲しみを消滅できるはずはないが、和らぐために何かできる場合は多い。単純な寄付でもできる。

そして、純粋に悲しい話は書きたくない。途中で悲しいことがあるのは話の流れに必要だろうが、話の終わりまでにその悲しみを乗り越えて、良い生活を築く話は良い。これに、二つの理由がある。一つは、上記の通り、私は悲しい話が好きではないことだ。作者は、自分の嫌いな話を作成しないほうが良いとよく言われる。情熱はないし、そのような話の良い展開は実感できないからだろう。そして、執筆の労働がさらにきつくなるはずだ。

もう一つの理由は、読者の立場から考えることだ。現実的な問題を描写して、そしてその問題が悲劇に終わる話を見せれば、絶望を招くのではないか。この問題について、何もできないとの印象を残すかと思う。一方、問題も解決も描写する話は、希望を与えられる。このような問題と取り組めば、解決できる、と。このような役割を果たすために、解決は現実的でなければならない。ただし、「現実的」は、話の中で現実的という意味だ。魔法がある世界であれば、魔法を使って問題を解決しても良い。人間のような存在の真摯な努力を描くのは必要条件だろう。

だから、私の描く話やTRPGで、悲しい出来事はあるとしても、最後までにその悲しみを乗り越える。


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