集団と義務

『神社新報』で「個人主義」と「権利強調」を憂える記事は少なくない。日本の伝統的な社会構成には、義務も集団も重視されていたと主張して、この変更は西洋の影響であるし、社会の崩壊を加速しつつあるとの趣旨もある。

私はイギリス生まれで、自由主義を提唱するので、的になる気分もある。それでも、考えさせられている。集団と義務も重要であるのは否めないので、社会構成に盛り込んだらいかがだろうかと思っている。それでも、自由主義はまだまだ基本であるので、条件がある。

第一の条件は、強制的に課す義務は他の人の自由を確保するための義務に限ることだ。殺人を禁じることなどはそうだし、社会福祉などを支えるための徴税もその例だ。それ以外の義務は、人が自由に担う義務になる。義務を一旦担っても、下ろせるべきだ。ある決断で一生縛られるのは良くない。一方、義務を担ったら、簡単に放置するわけにはいかない。その義務を果たして、それとも受け継いでもらう、又は義務の利益を受ける人に許してもらう必要がある。すぐに思い浮かぶ例は、子育てだろう。子供を育てることにしたら、義務が発生するが、子供が大人になるまでその義務を果たさなければならない。途中でやめてはならない。つまり、義務は自由に担うし、放置する条件も事前に考えなければならない。その放置は、なるべく可能にするべきだ。それは自由主義の影響だ。

そして、もう一つの条件がある。人が口で担う義務は、考える必要はない。果しても破っても社会全体は何もしないからだ。人が約束するのはよいことだが、普通の約束は、社会が関与しない。信頼関係の有無がその賞にも罰にもなる。一方、社会が法律で裏付ける義務や集団は、一般に論じるべきだ。だから、法律が関与する集団と義務について書くつもりだ。

法律が関与すれば、義務の本質には制限がある。その義務は、裁判で証明できること、そして裁判で命じられることでないといけない。例えば、また子育てを考えよう。子供を愛することはとても重要だ。私の考えは、それは親の一番の義務である。愛すれば、他の義務を自然に果たすし、失敗しても子供に大きな傷を与えることは少ない。(唯一の義務ではない。愛しても、間違った育て方で問題を起こすことはあるので、愛と知識は両方必要だが、愛しながら間違えば、問題がひどくならないだろう。)しかし、法律で愛を義務化できるまい。どうやって裁判で判断するのか。そして、判決でどう対応するか。裁判で「愛しろ」と言われても、愛するようになるはずはない。これは、法律が左右できないことだから、重要性を認めながら、人の良心に任せるしかない。

このことを考えるために、家族という団体から始めたいと思う。少なくとも、基礎的は団体の一つであるのは否めない。法的な制度をどうしたら良いかは、団体と義務を重視する立場から考えたいと思う。


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