最高裁と参議院選挙

先日、最高裁が去年の参議院選挙の訴訟についての判決を言い渡した。全体的に「違憲状態」だと定めて、中では「違憲」は4人で「違憲•選挙無効」は一人いたそうだ。そして、参議院選挙を県単位で行えば、違憲のままになることも指摘したそうだ。

この判決は、その前の参議院選挙についても、先ほどの衆議院選挙についても下された。もしかして、来月の衆議院選挙についても下されるのではないか。状態は大きく変わっていないので、訴訟は起こされると予想できる。最高裁は「違憲状態」を言い続けると、自体が改善されないのではないかと心配する人もいるようだ。しかし、私は最高裁の判断を評価する。

まず、これは深刻な問題である。参議院選挙では、一票の格差は5倍に上るそうだ。これは、民主主義に違反する状態であるのは否めない。自民党が投票の20%で議席の60%を占める可能性を招く。現在の事実では、そのような問題はまだ発生していないが、制度ではその可能性も防ぐべきだ。そして、このような問題を改善しないと、イギリスの19世紀当初の状態に陥りかねない。それは、三人が一人の議員を選んだが、別なところで数十万人には一人の議員があった。人口の変容に合わせて選挙区を修正しないと、このような状態が待つ。だから、最高裁がこの訴訟を受け入れるのはまず妥当である。

では、最高裁はどうすれば良い。憲法で、最高裁は行政や国会が憲法に従うかどうかを確認して、違憲な行為をやめさせる機関であるので、選挙は違憲であれば、最高裁がそう判断するべきである。婚外子の相続の法律は違憲であると判決して、法律の改正をさせた。選挙について同じようにしても良いだろう。

ただ、この問題は他の法律の問題と本質が違う。最高裁が選挙を無効とすれば、参議院が存在しない。前回の参議院議員はもう任期満了で、国会議員ではなくなった。新しく当選した議員は、選挙は無効となったら議員になっていない。しかし、参議院が存在しなければ、法律の改正案は通らせられない。つまり、新しい選挙の法律は立てられない。その上、選挙以来通らせた法案は原則として撤廃となる。選挙は無効だったので、この法案に票を投じた議員にはその権利はなかった。法案をまた正しく作られた参議院に提出しなければならない。

もちろん、これほどの混乱を許すわけにはいかない。だから、最高裁が原則として選挙を無効としても、なんらかの措置で国会の継続と選挙法の改正を可能とする。ただし、そうしても、最高裁が国会の詳細を決めることになる。それは避けられない。例えば、「3ヶ月以内選挙法を改正して、前回の参議院選挙をやり直して、そしてその間の法案を再提出しろ」などの判決にならないと、拘束力は事実上ない。

司法が立法にはこれほど関与するのは、憲法危機であるとは否めない。最高裁はこのような危機を避けたいと思える。それに、回避できなくなったら、過去を指して自分の正当性を強くアピールするための実績は必要である。今回の判決は、その一環として私は捉える。国会が自分で問題を解決するように強く促しているので、解決に至る可能性はある。そうではなかったら、最高裁は何回も警鐘を鳴らしたことを指摘して、次回の訴訟で選挙無効として、強制的に改正をやらせることを可能とする。

私は政治家であったら、衆議院選挙が終わった途端、選挙制度の抜本的な見直しを大急務とする。

Keiko Kitagawa Official Calendar 2015付録のBlu-rayの解析

北川景子さんは2015年のカレンダーを出すことになったので、予約したが、先日届いた。カレンダー自体は、月が変わるとめくるつもりだ。一年中新しい写真は楽しめるためだ。ただし、カレンダーの付録としてメイキングのブルーレーがあるので、それは早速見た。カレンダーの写真の雰囲気はわかったが、写真の詳細はまだわからない。それは楽しみだ。

では、まず感想、そして解析。印象は良かった。カレンダーは二つ作ったが、写真集は作って欲しいぐらい。26カット(表紙もあるから)は9つの衣装を見せるために足りないし、24分のメイキングもすべてを披露しない。解析にも取り上げるが、ドラマやCMで見えるイメージと違う。(ところで、「違うかぁぁ」の答えとして、「違くない」は本当に否定形だろう。あら、パソコンに打てば、辞書ででる。「主に若者語」って。やっぱり日本語学校で許してもらわなかっただろう。「形容詞ではない。否定形は「違わない」だよ」って。覚えとくが、辞書の編集の十年前でももう若者ではなくなっていたので、使わないほうが良いだあろう。それとも、使くない。この言い方はないみたい。)このイメージも好きだ。セクシーな側面もあるし、かっこいいといえばかっこいいです。そして、面立ちが大人っぽくなったような印象もあった。もちろん、28歳だから大人になっているが、「若者」の印象がなくなるつつある。元気である限り、これも良いことだ。とにかく、今のところで満足で、出費は惜しまない。来年の些細な楽しみになるようだ。

次は、解析。確かにちょっと大袈裟なのだが、動画を見ながらふっと思い浮かんだことだ。この動画で、どういうことは伝えたかったか、と。期待できる収入はそれほど高くないし、もらう人も限られるので、事務所で深く考えたとは思い難い。だから、もしかして「本当のこと」、「本当の様子」を見せるために編集したのではないか。その場合、解析すれば、伝えたい「本当のこと」をどう考えているかは、把握できるかもしれない。

大きなメッセージは、このカレンダーで見える写真は北川さん本人が見せたいイメージであることだと思う。そのまま北川さんが動画の中ではっきり言うが、それ以上オフショットで北川さんが撮影された写真を検討したり、髪型や衣装について要望を出したりする姿は何回も映されている。カレンダーの写真は、普段見える北川さんと違うし、卓上カレンダーの表紙は特にセクシーであるので、本人の希望の通りにしたことを強調するのは当然だろう。もしかして、このようなイメージの役も欲しいとの示唆も含まれているのではないか。ならば、私は大歓迎。

そして、現場で北川さんがふざけることを見せたい。当時の北川さんの「違うかぁぁ」というマイブームがよく取り上げられるし、異種お似合わないポーズのところも。昼食の場面はふざけばかりだ。北川さんが「後半にお腹がでる衣装は多いので、ジャガイモは絶対に食べないし、バターもたべない」と言いながら、ジャガイモの皮をむいて、バターをかけて、食べた。現場は楽しいよとのメッセージは重視されただろう。そして、昼食のふざけは興味深い。北川さんはわざと大食いのイメージを培っている。体型は細いが、やはり体の構造からだと思える。それでも、この強調には無理なダイエットへの抵抗感が表されているのではないかと私は思う。

もう一つは、北川さんが丁寧に周りのスタッフと接したことも映された。このところは、わざと撮影されなかったと思う。ただ現場での風景を撮れば、自然にこれが現れる。わざとだったと言っても、これも伝えたいイメージの一部である。それ自体は良いことだ。

この動画とフェースブックやブログでの投稿から考えれば、身近なイメージを重視している。ファンを「北川ファミリー」と呼ぶのはその一例だが、そのようなことは多い。

このような像はもちろん公開の形だ。隠れる側面もあるのは当然だ。ただし、見せようとする像からも性格は垣間見るので、私は見えることは好きなのだ。十年以上ファンとして続いてきた理由は、外見だけではない。

参拝マナー

10月27日付の『神社新報』では、参拝マナーについての記事が載っていた。参拝マナーというのは、参拝作法と違う意味だ。作法は、ニ拝二拍手一拝などの動作を指すが、マナーは、参拝しているときの心配りなどを指す。

この記事の中で、マナーの悪さも指摘されることを認めるが、マナーの良さも指摘する。例えば、初詣や大きな神社の祭りで参拝したい人は自然に整列することは広く見えるそうだ。これは確かにマナーのいい例である。しかし、急いでいる人を脇から入らせて、参拝させる神社もあるそうだが、記事の筆者がこのような行動について疑問視した。マナーの悪さに見えるし、個人主義に基づいて神様と参拝者の一対一の関係しか重視しないからだという。

このマナーの問題は、考えるべき問題であると思う。『神社新報』を読めば、まだ定まっていないことは明らかだが、その状態でどうやって配慮するべきかは曖昧であり、不明である。

小さな神社に参拝すれば、普段は問題はない。境内には誰もいないので、作法に従って参拝しても良い。そして、仮に一人がいても、ちょっと待ってから参拝しても問題にならないだろう。大急ぎの場合でも、並列して参拝するのは許されると思う。拝殿の前のところは、専用の空間ではないからだ。

しかし、仮に一人が参拝していて、もう一人が待っている場合、どうしたら良いのか。余裕があれば、待ったほうが良いのは明らかだ。では、余裕はなければ、どう?私は、余裕はそれほどないことは少なくない。どこかへ行く途中で、神社へ寄り道して、参拝する。1分待つことはできるが、5分待つことはできない場合は珍しくない。選択肢は三つ。一つは、脇から入って、参拝すること。もう一つは、参拝を辞めること。最後に、拝殿に近づかずに参拝すること。

完璧な解決策はない。脇から入ることは、マナーに違反する行為に見られるし、確かに気持ちはよくない。参拝を辞めることも、神様に失礼なのではないかと思われるし、せっかく参拝したのにとの気持ちもある。鳥居の辺りから礼拝すれば、賽銭箱には賽銭を入れない。入れるために、拝殿に近づかなければならないからだ。その上、鳥居の辺りから拝礼すれば、待っている人の気持ちが悪くなるだろう。邪魔になっているという罪悪感が湧いてくる可能性もあるからだ。

もう一つの気になる状態は、参拝に参ったときに、ちょうど昇殿参拝をしている人がいる場合。終わりかけていれば、祝詞などが終わるまで待つことはできるが、そうできない場合もある。特に、七五三の季節になると、祈願祭が続々と続くので、合間はあまりない。

この場合について神社で聞いたことがあるが、拝礼しても良いと言われた。大きな神社で、拝殿は広いので良いかと思うが、小さな神社で鈴鳴らしや拍手が祈願祭を執り行っている人の邪魔になるのではないかと感じて、ちょっと遠慮することになる。だから、どうすれば良いかは、分からない。

実は、大きな祭りで境内が賑わう場合は特に問題ではないと思う。大きな祭りは、事前に宣伝されるので、時間はなければ参拝しない。祭りが行われる間に参拝しようとすれば、待つしかない。だから自然の整列に加わると良い。しかし、日常的な場合は、難しい。この場合、個人的な関係と集団的な関係の問題が発生しない。なぜなら、すべての参拝者は個人であるからだ。問題は、複数の個人的な参拝をどうやって合わせたら良いか、ということだ。

私は神職ではないので、マナーを決める立場ではない。だから、悩むだけだろう。