統計分析

最近、仕事関係や川崎市の委員会の関係で、統計解析を多く行っている。

難しい。

計算は簡単だ。私は、専門ソフトを持っていないが、スプレッドシートでもすぐにできるので、手作業ではない。それに、基本的な計算はソフトに含まれているので、さらに簡単になる。問題は別なところにある。

まず、どういう質問をするべきであるか、と。解析の結果の意味が分からないと、しても意味はない。しかし、意味のある結果を得るために、意味のある質問をしなければならない。統計解析では、基本的二つの結果を比較する。一つの結果ではいわゆる記述統計は計算できるが、解釈は難しい場合は多い。一方、比較で「この方が高い」とか「これとこれが異なる」などの理解出来る結果は出る。例えば、薬を服用した人が、薬を服用しない人より回復したという結果は、医学研究では基本的だが、統計的な比較になる。

ただし、なんでも比較すれば、幻の結果が発生する。確率の問題だから、今回の例で偶然に極端的な結果が出る場合はある。その確率は計算できるが、例えば比較を100行ったら、100回に1回発生する結果が発生する可能性は高い。だから、なんでも比較すれば、結果を信頼できないことは極めて多い。そのため、結果には意味がある比較に事前に絞って、それだけを検討する。結果を見ずに「これは知りたい」という比較には、100回に1回の結果が出れば、事実を反映する結果であると思えるだろう。

この確率を計算する統計的な道具はある。しかし、この道具は数学の道具だから、データについての前提がある。データがその前提を満たないと、結果は危ういので、比較した結果は本当に違うかどうかは、わからなくなる。だから、データの質について考えなければならない。そして、普段使用する道具は不適切であれば、別な使える道具を探さなければならない。これも難しい。

最後に、データは本当に何を表すかを考察しなければならない。例えば、調査で「ユーフォを見たことがあるのか?」と聞いたら、その結果はユーフォの存在とすぐに繋がらない。同じように、「上司からいじめられたことがある?」と聞いたら、その人の感覚を聞いている。客観的な事実ではない。もちろん、上司に「部下をいじめたことがあある?」と聞いても、客観的な答えがでないので、これは避けられない問題だが、対応を慎重に考えなければならない。

そして、解析はこれでできたら、さらに問題が発生する場合もある。結果はある団体などが重視する主張と違ったら、その反発を考えなければならない。統計的なデータにはいつも間違えた可能性があるので、断定的に「これだ」とは到底言えない。表現の問題も重要である。

つまり、最近の作業は大変だった。実りのある結果になるように祈って已まない。

オタクの服装

典型的なオタクの服装はもてない。これは常識だろう。ダサいと言われるが、それはなぜなのか。オタクの服装は実践的である。動きやすいし、着やすいし、荒れた天気でも平気である。リュックには多くのものを入れて、楽に運べる。つまり、オタクの服装は非常に現実的である。それはなんでダサいと言い捨てられるのかな。

最近思いついた仮説は、進化論から借りた。動物は、自分の本質を他の動物に示したいことは多い。一番分かりやすいは、雄は雌に自分の遺伝子の強さと相手としての適切さを強調することだ。ここで生じる問題は嘘だ。雄が嘘をついたら、雌は騙されてしまう。だから、嘘はつけない方法が進化によって探される。

進化論によると、その一つの例は費用の発信である。(英語でcostly signallingというが、日本語での正式な訳は分からない。)このような発信は、発信するために実力が必要となる。つまり、完全に嘘をつくことはできない。

例えば、どのぐらい早く100メートルを走ることはできるかということであれば、言葉だけなら気軽に「9秒でできる」と言える。嘘だと疑う人はいるが、嘘をつく人と真実を述べる人を区別するのは難しい。このような発信には費用は必要ではないので、勝手に発信できる。一方、100メートルの速度を表示するために25メートルを走る方法を考えよう。25メートルを3秒で走れれば、100メートルを早く走れる可能性は高い。嘘をつこうとしたら、25メートルを早く走れるようにならなかければならない。確かに100メートルの時間と密接な関係を持たないが、25メートルを3秒で走れる人のほとんどは、100メートルを12秒以内走れるだろう。この発信には費用があるので、証拠にもなる。

目立つ色を持つ鳥の雄も同じであるのではないかと言われる。目立てば、野鳥は危険に晒されるが、まだ生きている鳥はその危険を回避できた。だから、力がある証拠にもなる。

では、オタクの服装とどう関係するのだろう。オタクの服装は、費用を要しない服装だ。生きやすくする。だから、この服装で生き残るためには特に力は必要無い。一方、お洒落な服装であれば、まずお金がかかるし、そしてファッションの変遷を見極めなければならないし、それに動きにくくて寒い場合もある。そのような負担を背負っても生き残れる人には、やはり力があると言えよう。だから、相手として適切である、つまりもてる。

もちろん、このような判断は無意識である。尋ねれば、「かっこいい」か「ダサい」かしか言えない。その裏には、進化によって決まった心理があるかもしれない。

手書き離れ

私はあまり手書きしない。

私だけではないだろう。パソコンや情報端末が普及している中、多くの人が手書きより打つことになった。漢字が書けなくなっている問題は久しい。

しかし、最近ちょっと気になってきた。まず、手書きしないと書けなくなる。英語でも、ちょっと書きにくくなったような気がする。そして、直筆の文章は、執筆者との関係は深く感じられる。親しい人への手紙とか、日記とか、作品の原稿など、直筆であれば特別な価値があると私は思う。

誤解されないように、書道などの美しい字を考えていない。私の手書きの字は幼い頃から汚いので、芸術作品の認識は全くない。ただ、他の人が読める字で、私が手で書いた字であることを考えている。(確かに過去の字を見れば、他人は愚か、私でも読めない例は少なくないが、ちょっと気をつければそのような問題は避けられるだろう。)

では、どうすれば良かろう。作品を手書きで執筆することはできない。そうするために仕事のやり方を一から直さなければならないし、出版社に提出するために電子形式にしなければならないので、生活の妨げになる。つまり、仕事以外の何かにしなければならない。

一つの候補は日記だろう。手書きの日記は、伝統的であるし、秘密に自分の考えを書くことはできる。ただし、私の考えの中で秘密にしなければならないことは少ないし、このブログでたくさん書くので、日記に書く内容はあるかどうかは疑わしい。やる気が続くのは心配だ。手書きするために時間を割かなければならないので、有意義なことをしないと、忙しさの中で止めるはずだ。日記は可能だが、他の可能性を考えたい。

日本語の手書きといえば、ブログで披露している短歌を直筆で書けば良いだろう。短いので、それほど時間はかからないし、漢字の練習にもなるので、実践的な立場から良いだろう。そして、短歌は手書きにふさわしい存在だ。パソコンで作歌が終わったら、完成された歌をノートに書き写すのは楽しいだろう。もちろん、筆で書くわけはない。万年筆を使用するつもりだ。

英語の場合、手紙は良いかなと思っている。誰かに送るので、書くことには意味がある。そして、手書きの手紙には特別に感情が含まれるような気がする。数十年前だったら、自然に家族に手紙を出したと思うが、現在ならビデオチャットで連絡を取っているので、手紙はない。ビデオチャットの方が良いが、手紙を書こうとしても、言いたいことのほとんどはもう伝わっている。どうしよう。

まだ結論は出ていないが、とにかく私の手書き離れに歯止めをかけたいと思う。