2014年を顧みる

2014年がもうすぐ終わる。今年を顧みると、何が記憶に残るだろう。年末から見ると、一年はかなり長いので、記憶に鮮明であるのは先日の北川景子さんのイベントだが、一年にたくさんの思い出があるはずなので、もう少し前を考えよう。

3月ぐらい、神宮へお参りして、外宮の旧宮に入らせていただいた。去年のお白石持ち行事と合わせたら、内宮と外宮の両正宮を見ることができた。20年に一回しかできない体験だから、できてよかったと思う。神道の事と言えば、7月の植樹祭と金華山での参篭もよかった。植樹祭は、東日本大震災の被災地の復旧への具体的な支援にもなったし、見えた神楽も素晴らしかった。そして、それをまたがって神社検定があった。6月に受験して、9月に(確か)合格の通知表が届いた。感想をたくさん書いたので、ここで詳細に触れないが、かなり達成感があった。受けてよかったと思う。

そして、時の流れに戻れば、4月に真由喜が小学校に入学した。それ以来の成長はすごい。年齢もあるし、周りの子供の刺激もあるし、幼稚園と違う環境だからと思う。先生によると、問題はないそうだ。真由喜が真面目に勉強するし、間違えれば落ち着いてわかるまで頑張るそうだ。その年齢で、私が間違えたら全く落ち着かずにパニックに落ちいてしまったので、真由喜は私より安定しているようだ。それに、真由喜の友達は多いようだし、親友もいるので、学校を楽しく通っているらしい。私は、個人面談に参加したり、読み聞かせのために学校に行ったりしているので、学校内の状況はよく想像できるし、真由喜から学校の話は聞く。

また4月のことだが、真由喜が日本舞踊を再開した。去年の10月から止めたが、今年になったら、やはりやりたいと言った。先生が再開を許したので、今私が日本舞踊を担当して、真由喜を連れていく。真剣に練習できるようになったし、長く集中できる。最後の挨拶の時に私に甘えるが、お稽古自体はちゃんとする。一旦止めさせてよかったと本当に思う。そのお陰で、真由喜が自分のやりたいことを把握して、私が無理矢理させたことではなく、自分で選んだこととして考えているようだ。

真由喜と一緒の旅行を春と秋に行ってきたが、真由喜はそれをチャート家の古からの伝統として考えているようだ。それもよかった。真由喜と一緒の2泊は、私たちの絆にも良いし、ゆり子の休憩にもなると思う。その上、夏に家族でイギリスに行ってきて、私の母と時間を過ごせた。それも大変よかった。編集の仕事関係の方とも会えたので、充実した旅行だった。

それでも、今年は家族のことはまだ満足していない。必要最低限はできていると確信するが、必要最低限は目標ではない。引き締めて、来年に向かう。

家族との時間に邪魔をするのは仕事である。もちろん、仕事は必要であるが。今年の大きな変化は、5月末に日本論理検定協会を事実上退職したことだった。関係は完全に切れていないが、毎週通うことはなくなったし、他の仕事がメーンになっている。正直に言えば、それはよかった。計画の目標は今でも賛同するが、何かが私に合わなくて、かなりの負担になった。今でも完全に復活していないだろうと思うが、かなりよくなった。

その仕事を辞めたら、他の仕事がさらに必要となるが、英語を教えることは主役になっている。今も生徒さん募集ですので、ご興味を持っている方、どうぞ。編集と執筆の仕事は、満足ではないが、維持するための必要なことができた。

川崎市での活動にも変更があった。3月末に外国人市民代表者会議の任期が終わったが、4月から多文化共生施策検討委員会の委員になった。外国人市民の実態調査の結果を待つことになったので、今年度はまだ一回しか集まっていない。来年から活発になると思う。調査といえば、ワーキンググループに入ったので、調査の作成と結果の分析と報告書の政策に関わった。今回のアンケート調査の分はできたはずだから、来年度、面接調査の予算が出るかどうかを待つことだ。

つまり、今年は重要な変化があった一年で、次の目標のための準備になっていた。大満足であるとは言えないが、無駄な一年間ではなかった。

そして、年始には抱負をブログで公開した。その結果はどうなっただろう。

防災準備は、かなり進んだ。家具の固定はできる範囲までできたし、防災グッズも蓄えた。食品はまだ不足しているので、完璧ではないが、進んでよかった。

Kannagaraは完成から程遠いし、Tamaoの修正には着手さえしていない。これは今年を大満足できないの理由の一つである。

神社検定壱級に合格した。その抱負は完遂した。

家族と仕事の均衡について、進歩した。改善はできたと思うが、まだまだ改善する余地が残る。

新しい社会貢献は見つけた。調査と多文化共生施策検討委員会はそれである。委員会だけになったら、ちょっと余裕があるだろうが、今年はできる範囲でしたので、この抱負もOKだ。

追加抱負の長い散歩は中途半端。できたが、月一回のペースにならなかった。それは、ちょっと事情によってなくなったので、特に気にしない。

最後に、このブログである。怠らずに続けてきた。内容をより充実にさせられたかどうかはわからないが、事前に投稿を作成するようになった。この抱負は、私なりに完遂したと思う。読者はどうお考えになるかはわからないが、これからもどうぞ宜しくお願いします。

八つの中で、三つは成功、三つは進歩、二つは失敗。自慢できる成績ではないが、絶望する状態でもない。今年を基盤として、来年に向かおう。

さて、良いお年をお迎えください。

集団主義の真髄

『神社新報』などでは、「わがまま」を捨てるべきであるとの趣旨がある記事は多い。それは、自己主義や個人主義を脱却して、集団主義に戻るための施策である。

ただし、「わがままを捨てる」ことは、具体的に何だろう。「あなたがやりたいことをやめて、私はやってほしいことをする」という意味であれば、明らかに呼びかける方のわがままである。呼びかける方は、集団の中で権力を持っていれば、わがままだけではなく、制圧でもあろう。呼びかける方はそのように考えないのは当然である。「私がやってほしい」ことではなく、「やるべきこと」とか「集団の利益に貢献すること」として自分に見せたり、正当化させたりする。しかし、これは変わらない。「私がやるべきであるともうことをやってほしい」ということになるからだ。相手の判断に代わって、自分の判断を押し付ける。それもわがままである。

一方、全てを個人の判断に任せれば、それは個人主義そのものだ。

問題解決は、民主主義だろう。複数の人が集団を組んで、話し合いながら集団の目的やするべきことを決める。そして、自分の気持ちより、その決断に従う。

話し合いから除外された人を従わせれば、それは集団主義ではない。それは自分のわがままである。「お前は、俺たちが決めたことに従え」と。だから、集団の人の参加を図らなければならない。10人程度まで、単純に話し合って決めるのは良かろう。より大きな集団で、採決方法などが必要になるし、代表も設けなければなるまい。重要なのは、集団を構成する人は皆、集団の規則や目標の決定に十分影響を与えられることだ。

集団の規模が都市や国になると、もしかしてこのように構成員の全ての意見を反映することは無理になるのだろう。そうであれば、法律を課すことは、集団主義ではない。国のための努力は、集団主義の大義名分では呼びかけられない。「集団主義」が綺麗事になり、権力者のわがままを覆い隠す技になる。

同じように、集団と方針とどうしても賛同できない人は、集団からの離脱を許さなければならない。そうしないと、集団主義ではなくなる。これも、国の規模で集団主義は導入できない理由になると思える。人を国を離れることを許すと言っても、事実上そう簡単にできることではない。(体験があるので、断じて言える。)集落でも、引越しになるので、事実上出られるかどうかは不明となる。

一方、集団主義には意味があれば、離脱で何かを失うのは当然である。

これで、まだ問題は解決されていないが、集団主義とは何かをよく考察したいと思う。

焦るな

現代社会では、私は問題視する傾向がある。それは、何でもかんでもなるべく早く完成させようとする傾向である。これは日本に限らず、アメリカやイギリスでも見える。例えば、私のTRPG業界で新しいゲームを発想から発送まで1年間以内を目指す場合は多い。同じように日本のテレビ番組で、連続ドラマの脚本はドラマの放送中に完成させるそうだ。つまり、作成を始めるのは、放送が間近に迫ってきた時点であるようだ。建築も同じであるのではないかと思う。

このような慣習は、作品の質を劣らせると確信する。良質の作品を生み出すために、何より時間は必要である。

先に言っておくが、例外はある。運が良くて、最初から必要な要素や刺激が整い、すぐに優秀な作品を出すことは確かにある。多くの場合、作者が長い間その腕を磨いたりしてきたので、ある意味ですぐに作成されていないとも言えるが、この作品は早いのは否めない。しかし、これは例外である。作者は優秀であっても、普段は時間は必要である。

しかし、この時間の使用法は予想とちょっと違うだろう。

良い作品を作り出すために、一点、一点、ゆっくり考えて、完璧に作成するのは良くないと思う。なぜなら、人間はそういう風にできないからだ。

むしろ、案を早めに作成したほうが良い。そして、案をしばらくの間置いておいたり、他の人に見てもらったり、修正したり改善したりする。この過程を繰り返すと、最後の作品の質が高まると私は思う。

そう思う理由は、私の経験である。この十数年、Ars Magicaというゲームを監督してきた。一冊の本を作成するために、2年から3年を費やすのは恒例だ。例外に、5年以上がかかった本もある。その過程は、数ヶ月をかけて発想を募集してから、草案を書いてもらう。本一冊には複数の作家が共同で作成するので、草案は、私も他の作家が読んで、コメントをする。そして修正。それから、ゲームのファンへ出して、また批判や指摘をもらう。また修正。もう一回ファンへ。また修正。必要であれば、またファンへ。また修正。最後に、私が最終訂正をする。この過程には、時間は必要だが、作品の質の向上にかなり貢献する。その上、このような作品には緊急性は一切ない。治療は違うが、待ってもかまわない作品は極めて多い。

だから、このブログの投稿は、焦っている。なるべく早く書いて、公開してしまう。なぜなら、私の考えではこの投稿は作品ではない。この投稿は草案である。最終的に良い作品を作り出すために未熟の案をたくさん作成する。結局、なんの作品になるかは、未定だが、それも時間がかかる過程の一部であると思う。