集団主義の真髄

『神社新報』などでは、「わがまま」を捨てるべきであるとの趣旨がある記事は多い。それは、自己主義や個人主義を脱却して、集団主義に戻るための施策である。

ただし、「わがままを捨てる」ことは、具体的に何だろう。「あなたがやりたいことをやめて、私はやってほしいことをする」という意味であれば、明らかに呼びかける方のわがままである。呼びかける方は、集団の中で権力を持っていれば、わがままだけではなく、制圧でもあろう。呼びかける方はそのように考えないのは当然である。「私がやってほしい」ことではなく、「やるべきこと」とか「集団の利益に貢献すること」として自分に見せたり、正当化させたりする。しかし、これは変わらない。「私がやるべきであるともうことをやってほしい」ということになるからだ。相手の判断に代わって、自分の判断を押し付ける。それもわがままである。

一方、全てを個人の判断に任せれば、それは個人主義そのものだ。

問題解決は、民主主義だろう。複数の人が集団を組んで、話し合いながら集団の目的やするべきことを決める。そして、自分の気持ちより、その決断に従う。

話し合いから除外された人を従わせれば、それは集団主義ではない。それは自分のわがままである。「お前は、俺たちが決めたことに従え」と。だから、集団の人の参加を図らなければならない。10人程度まで、単純に話し合って決めるのは良かろう。より大きな集団で、採決方法などが必要になるし、代表も設けなければなるまい。重要なのは、集団を構成する人は皆、集団の規則や目標の決定に十分影響を与えられることだ。

集団の規模が都市や国になると、もしかしてこのように構成員の全ての意見を反映することは無理になるのだろう。そうであれば、法律を課すことは、集団主義ではない。国のための努力は、集団主義の大義名分では呼びかけられない。「集団主義」が綺麗事になり、権力者のわがままを覆い隠す技になる。

同じように、集団と方針とどうしても賛同できない人は、集団からの離脱を許さなければならない。そうしないと、集団主義ではなくなる。これも、国の規模で集団主義は導入できない理由になると思える。人を国を離れることを許すと言っても、事実上そう簡単にできることではない。(体験があるので、断じて言える。)集落でも、引越しになるので、事実上出られるかどうかは不明となる。

一方、集団主義には意味があれば、離脱で何かを失うのは当然である。

これで、まだ問題は解決されていないが、集団主義とは何かをよく考察したいと思う。