罪の償い

罪が犯されたら、加害者と異なる被害者がいる。被害者はいないと、罪と見なすべきではない。被害者はいない行動は、自由の範囲に入るからだ。被害者は、その被害によって自分の人生の計画を乱れさせられた。ある人が作品の海賊版を入手したら、その乱れは小さいが、存在する。旅行先で財布が盗まれたら、人生全体への影響は小さいものの、楽しみにしていた旅行が台無しになるだろう。飲酒運転の事故で命は奪われたら、人生の計画も当然白紙に戻ってしまう。この乱れは被害者の責任ではないので、なるべく自由を復活するべきだと思う。

その責任を背負うのは、加害者であるのではないか。加害者の行為の結果は予想を超えても、行為を行ったのは加害者なので、予想できなかった責任も背負うべきであると言えるだろう。場合によって、その予想外の結果で加害者もある意味被害者になることも考えられるが、そのような問題を後回しにして、ここで普通の場合を論じたいと思う。

加害者が被害を償うことは、ほとんどの人にとっては当たり前だろう。神道の古典にも見えるし、ヨーロッパの古代の法律にも見える。しかし、現行の刑法では、そのことは重視されていない。罰金などが国家に納められ、刑務所での活動が被害者の利益にはならない。その結果、被害者の賠償を見逃すか、保険に任すか、民法に任すか、という傾向は強い。

自由の立場から考えれば、この傾向を直すべきであろう。なぜなら、加害者の自由を制限するのは良くないので、その制限には強い理由がなくてはならない。先日に述べたように、その理由の一部は犯罪者への利益であるが、そのような方針に矛盾を感じる人は少なくないだろう。犯罪者、即ち加害者に利益をもたらすのは、如何なものか、と。もう一つは、犯罪が起こした被害者の損害を償うことだ。これに対して、違和感はないだろう。そして、構造的にも良い。他人の被害を無視できれば、自分のやりたいことの費用を別人に転嫁することが多くなって、社会的な問題になる。汚染はその例の一つである。廃棄物を排出ことには費用は少ないし、被害のほんとんどは企業ではなく、周辺住民のものになる。犯罪にも同じような様子がある。犯罪者が自分の欲しいものを入手するが、その費用は被害者に課する。そのような行動が許されたら、社会的な問題になるに違いない。

つまり、犯罪者に償う義務を課しても、それはただ自分の行為の費用を自分で負担することに過ぎない。国家が勝手に背負わせる罰ではなく、自分のやりたいことの一部に過ぎない。

では、具体的に実現すれば、どうなるのだろう。その問題は、後日に取り扱いたいのだ。