歴史的な歴史認識

先日、歴史認識問題について論文を読んだ。ただし、この論文は、Speculumというヨーロッパの中世歴史を扱う学論雑誌で、取り上げられた歴史認識、13世紀末のベニシアでの十字軍についての歴史認識だった。(Thomas F. Madden, “The Venetian Version of the Fourth Crusade: Memory and the Conquest of Constantinople in Medieval Venice”, Speculum 87:311-344, 2012)

このブログをご覧になる方には、ヨーロッパの13世紀初頭の歴史がお分かりにならないだろうと思うので、背景をちょっと描写する。十字軍のイスラム圏との戦いは、11世紀末に始まった。最初は十字軍の大成功だったが、現地のイスラム勢力が次第に逆襲した。12世紀末になると、中東に住み着いたキリスト教徒の助けへ法王などが送ろうとした。第4十字軍はその一環になるはずだった。しかし、ベニシアで運送の船の契約を結んだのに、その契約を果たすことはできなかった。だから、ベニシアの権力者の勧めで、キリスト教についた中東になかったザラという街を襲って、焼野原に戻したそうだ。それから、コンスタンティノープルを首都とするローマ帝国の帝王の後継問題に巻き込まれ、コンスタンティノープルを襲うことになった。

そのことを聞いた法王が猛烈に反対したが、十字軍がそれをよそにしてコンスタンティノープルに進んだ。あそこで、擁立した候補を帝王にさせたが、関係が悪化して、複雑な経緯の末、十字軍がコンスタンティノープルを落城させて、自分の将軍の一人を帝王にさせた。

このような行為を厳しく批判した法王が十字軍を一斉に教会から除外した。中世では、それは厳しい罰であった。現在の歴史学者は、この十字軍を批判する。イスラム教との戦いの是非に及ばなくても、それどころか、キリスト教の重要な都市の一つを落城させるのはひどいことであるし、被害も犠牲者も多かったことを理由とする。

しかし、ベニシアで法王の指導に従ってコンスタンティノープルを征服したということは通説だったそうだ。これは明らかに史実に反する見解だが、ベニシアで16世紀まで残っていた証拠がある。その原因は、ベニシアの司令部がベニシアの一般兵士に嘘をついたことだった。法王の命令を偽ったりして、行動を事実と違う形で描写したようだ。そして、ベニシアで、ベニシアは法王に並ならぬ忠誠な都市であることを誇っていたそうだ。だから、コンスタンティノープルの征服は、法王の命令に従った行動だったことを強く信じていた。

これは、日本の大東亜戦争の場合と似ていると感じざるを得ない。戦時中、どこの国でも、自分の戦犯を隠す。それは敵国だけではなく、自分の国民に対しても行うことだ。そして、戦争のきっかけを綺麗事に強調する。最近の例はイラック戦争で、大量破壊兵器の脅威を理由としたが、その証拠はないことは、むしろ存在しない証拠さえあったことは、後で明らかになった。

ベニシアの兵士は、法王に従うために、そして神様に奉仕するために、法王も歴史学者も厳しく批判する罪を犯した。その兵士は悪意で動いたとは思えない。正義に従って、必要な辛い選択肢をとったと思える。それでも、結果は悲惨だった。日本の帝国の時代も、大英帝国の時代も、基本的に同じだったのではないかと私は思う。


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