美的主義の自由

先日、社会の理想を掲げる立場を「美的主義」として論じたが、今回その立場についてのもう少し考えたいと思う。

自由な社会で、社会の理想像を実現することはできないと述べた。その理想像に従いたくない人は必ず現れるし、その枠組みをはみ出る行為を行うので、理想像が損なわれる。自由な社会であれば、その行為が他の人の自由を侵さない限り、社会の理想像への損害は禁じる根拠に至らない。だから、自由な社会を設立すれば、その社会はどうなるかは、言えない。ただし、人が自由に自分の人生を講じると言える。

そう考えれば、ある理想的な社会を実現したい人も存在する。必然的に現れるかどうかはわからないが、現実の社会の全てを観察すれば、そのような人が存在する。現在の日本は例外ではない。掲げる理想像は異なるが、そう思う人は多い。では、そのような行為を禁じるべきだろう。

言ってみれば、明らかにおかしい。社会の理想像を持って、実現しようとすることは、人間にとってごく自然な活動であるので、それを禁じる社会は自由な社会ではない。一方、社会規模で成功することを禁じざるを得ない。理想的な社会を実現するために、人の自由を侵さなければならないからだ。

この矛盾を解消するために、理想的な社会の規模を制限しなければならない。そうすると、その社会に暮らしたくない人は引っ越すことはできる。だから、規模は国より小さくするべきだ。なぜなら、歩くには別な国に住む権利を保障できないからだ。自分の国の別な場所で住む権利は保障できるので、同じ国の中でその理想的な社会を出る可能性を提供するべきだろう。そして、限られた場所の中で理想的な社会を実現することを許すために、原則として出る自由しか保障できない。

ちょっと具体的に例を上げよう。例えば、キリスト教徒で、カトリック教会を中心とする社会を考えよう。女性を神父の役割から除外するし、同性愛を禁じるし、他の宗教も禁じる。これは「基本的な人権」の違反であると思われるが、この三つを禁じられなければ、カトリックの理想的な社会へ実現できない。サウジアラビアのようなイスラム教も同じような問題である。女性に運転を許さずに、他の宗教を厳しく禁じて、お酒も禁じる。もう少し美的な例を上げれば、古典的な日本風を重視する社会で、和装を義務にしたり、外人禁制にしたり、木造の建物に統一することも考えられる。これも人権を侵す。

それでも、そのような社会から出された人、そしてそのような社会に住みたくない人は、脱出する権利と力が保障されたら、そして脱出しても生活は困窮に陥らないことは保障されたら、人権は大きく尊重されていると言えるのではないか。むしろ、そのような社会を目指すこと自体を禁じたら、人権の問題はより大きいのではないか。

このように考えれば、大きな問題がある。それは、具体的な制限を決めること。まず、理想的な社会の各々の大きさ、そして社会全体の割合を設定しなければならない。脱出先を確保しなければならないからだ。そして、その理想社会で育つ子供の自由を保障するための措置も必要だ。大人は、入るかどうかは選択できるが、子供は生れながら入っているので、特別な問題がある。最後に、理想社会はどのような法令や罰則でその理想像を維持できるかも、決めなければならない。

だからこそ、実質的な自由の保障することは、簡単な作業ではない。

帰化の第二回の面接

昨日、また法務局の川崎支局に行ってきた。二回目の帰化についての面接だった。前回、必要な書類を教えて貰ったので、それからの2ヶ月あまりでその書類を集めてきた。今日提出するかもしれないと思っていたが、それは勘違いだった。今日は、一次の担当者に書類を確認してもらうためだった。そのため、山ほどの書類を往復で持っていた。重かったな。

四つのA4の封筒発行してもらう書類がそろったら、記入する書類の作成やコピー作りにした。それは丸二日がかかった。履歴書を書き込むのに時間がかかったし、動機書はパソコンで草案を用意したが、提出する動機書は自筆ではないとダメだから、書き写しした。そのほか、親族概要や生計概要の書類もあった。それに添える書類も多いので、コピーを用意した。スナップ写真以外、何でもかんでもは2部だから、それでコピーが必要となる。そして、私は控えとして一式が欲しいので、また1部を用意した。その上、提出できない書類を担当者に見せることになるので、それもコピーしてから用意した。提出できない書類は、例えばパスポート、在留カード、銀行通帳などだ。担当者が原本と写しを見比べて、ゴム印で確認を証明する。全ての書類は、写真の通りになった。

面接の時間より早く着いたが、ちょっと早めに始めさせてもらった。書類を出して、担当者と確認した。一枚一枚めくりながら、書類の種類を確認した。一次の担当者は、書類の内容を確認しないそうだ。それは次の担当官の仕事であるという。一次の担当者は、形式は正しいかどうか、そして必要な書類は揃っているかどうかを確認する。

私はまだ国籍証明書は持っていない。私がイギリス大使館から聞いた話と法務局が聞いた話は違うので、私はまた大使館にメールをだして、究明する。担当者が言うのは、本当に発行しないなら、法務省で一般の対策を決めなければならないので、厳密に確認したいそうだ。それはそうだね。イギリスが発行しないなら、要求できないが、何かが必要になる。イギリスが発行するのは、パスポートしかないようだから、これはどうなるかは分からない。

そして、給与証明書は必要だ。ゆり子のアートフェア東京のバイトの証明書と、私の収入の証明書。私の収入の証明書は、自分で証明するそうだ。それはちょっと不思議だが、紙に記入して押印することはできるので、問題ではない。

それだけだから、次回から担当官と面接することになっている。次回は2週間後、ゆり子と一緒に行く。妻と一緒に行く理由は、偽造婚をあぶり出すためであるそうだ。

私がもらった資料から明らかではななかったことは二つわかった。

一つは、パスポートの和訳はもしかして不要であることだ。確かに英語の書類だが、山ほど見るので、パスポートぐらいがわかるそうだ。もう一つは、銀行口座の通帳のコピーを提出しなかればならないが、指定口座のために開いた口座は、大した金額ではなければ、提出しなくても良い。「税務署ではないからですね」と私が言ったら、「その通り」と担当者が答えた。生活の基盤を証明するために提出するので、数万円程度が他の口座に入っても、問題にはならない。数十万だったら、提出したほうがいいと思うが、些細な金額は気にならない。最後に、スナップ写真は1枚ずつでよい。2部は不要だそうだ。スナップ写真は、法務省に提出するそうだ。法務局の担当官は本人と会うので、雰囲気がわかるが、法務省で判断する人はそうしない。スナップ写真はそれを補うためだそうだ。

そして、新しい話だったが、審査と協力しない理由で帰化を拒否することができるそうだ。だから、これから様々な依頼が出てくる可能性は高いが、従うように戒められた。もちろん、従う。帰化する権利は全くないし、何かを依頼するときに、下される人の条件に従うべきである。これからかなりの時間がかかるので、担当官との面接をなるべく早く済ませるように促された。その面接は、書類確認には一時間、妻との面接は一時間、そして私との面接は一時間だそうだ。ちょっと長いが、ゆり子の面接の間に本を読むつもりだ。(偽造婚対策だから、別々で面接するに違いない。)

担当者の話によると、長くこの仕事をしたが、二回目の面接で書類の全てが揃ったのは初めてだそうだ。ちょっと驚いた。確かに、私は書類の用意を難しく感じないが、説明に従うと自然に揃うので、前例があるはずだと思った。皆様、帰化を申請すれば、説明にちゃんと従ってね。

美的主義

先ほど、このブログで「社会は美術作品ではない」と強調した。それは、自由を重視する理由の一つだった。そして、その後、集団主義の本当の意味を考察したが、民主主義は必要条件であること以外、結論に至らなかった。今回、その二つの概念を一緒にして論じたいと思う。

良い美術作品を作るために、まず含むべき要素を決めて、構成する。しかし、それは一部に過ぎない。合わない要素を削って、切り捨てることもとても重要である。実は、切り捨てる行為の方が重要であると思う作者は少なくない。「作品の完成は、加えることが残らない状態ではなく、削れることが残らない状態である」と言われる。

だから、社会を美術作品として捉えたら、いい要素を入れることも重要だが、相応しくない要素を除外することも重要である。社会は作品だから、除外することは、基本的に人の行為になる。

この場合、自分には影響はないかどうかは関係無い。そして、他人に影響があるかどうかも、関係無い。本人にしか影響を及ぼさなくても、社会の全体像を損なうので、除外しようとする。モナリザの枠の片隅に私の落書きをするようなことになる。私の落書きは、ダヴィンチの才能を産んだ作品の顔を損なわない。そして、絵画の表面にもない。しかし、絵画の隣に私の下手な落書きがあることは、作品の見せ方として悪い。社会での行動は、社会の一部であるので、さらに作品を損なう。この除外は、行動自体を絶滅させることも可能だが、社会から除外することも可能だ。例えば、自分の国で禁じるが、外国でされても文句を言わない。

社会は作品であれば、個人の行動は、その本人の希望などではなく、社会の全体像を考えて決めるべきである。つまり、集団を考えなければならない。そして、権利より義務の方が重要となる。義務は、社会の作品を作るために必要とする行動であるが、権利はしなくても良いことばかりだ。権利を重視すれば、社会を美術作品にするのは到底無理だろう。しかし、個人の見地を抑えようとするし、集団の全体像を重視するのに、これを集団主義とは言えない。集団の意志や発展を重視しないからだ。むしろ、作品を重視する。つまり、これは美的主義の一種であるのではないか。

このことを示唆する言い方も少なくない。「理想的な国」は、憧れる全体像を思わせる。「美しい国」はさらに直接的である。

これは、自由主義と根本的に違う見方であると言えよう。個人の自由を重視すれば、美しい作品の社会を作成することはできない。自由に動く人はその作品の計画と合わないことをしたり、汚したりするからだ。自由主義を擁護すれば、この結果を認めざるを得ない。一方、美しい作品を作るために、個人の自由を潰さなければならない。少なくとも、汚さないようにしなければならないが、全体像に貢献させることもある。

私も、このような理想的な社会の魅力を感じる。「美しい日本」で和装を着ている人が木造の町屋のような道を歩いて、時代劇に見えるような風景があれば、それは確かに美しい。さらに根本的に言えば、皆んなが協力しあって、誰もが幸せになる社会を作り上げる社会も魅力的でたまらない。しかし、それも美的主義である。皆が協力することは、自由を重んじれば、期待できない。

では、どちらの方が良いのか。私は、まだ自由の法に付く。しかし、絶対的な根拠はない。一方、美的主義の方にも、絶対的な根拠はない。自由主義の強みは、自由主義は一つの立場であることだ。美的主義は、理想像の詳細によって数えられないほど多くの立場である。美的主義に付いたら、さらに正しい理想像を選ばなければならない。その選択肢は難しいと思ったら、少なくとも当分の間、自由主義を擁立するべきなのではないかと思わざるを得ない。