追加の書類提出と友達との再会

昨日、ちょっと忙しい一日だった。

まず、午前中に川崎駅周辺に行って、法務局で帰化申請の追加書類を提出した。これは、担当係が依頼した書類だから、今回は本当に最後の書類である可能性がある。まだ法務省に提出されていないので、また依頼される可能性も十分あるが、これも一つの節目と言えよう。

池の周りの桜と池上のボートそして、同時に出国についてのことを話した。今年後半にはアメリカに行くべきことがあるが、申請の過程ではもう日本人になっていないと思うべきであるそうだ。一方、イギリス国籍を離脱するために、パスポートをイギリスへ送らなければならない。つまり、数ヶ月パスポートなしになる。担当係によると、そうなれば、法務省から指示が出れば、海外旅行のために最後の手続きをちょっと延期できるそうだ。それで、本当に良かった。

午後は、吉祥寺に行って、11年前の日本語学校時代の友達と2年ぶりに会った。この方は、母国で日本語先生になっているし、塾を経営しているのが、素晴らしいと思う。懐かしい話はできたし、昨日の首都圏の天気はお花見にぴったりだったので、井の頭公園に行って、桜を見た。私は、首都圏はもう10年間だが、吉祥寺は初めてだった。やはり、面白い街だし、公園の桜も綺麗だ。

重要な用事ができたし、楽しい時間も過ごせたので、充実した一日だった。

公平

倫理的な論争になると、「公平」という概念を掲げる人は少なくない。公平であるべきと言ったら、抗議できないだろう。「いや、不公平にすべきだ」と強調するのは難しいし、説得力は極めて乏しい。しかし、「公平」は、一体何だろう。

簡単な例を考えよう。ケーキを1個ある、子供は5人。子供は皆ケーキが食べたいのだ。では、公平な分け方は何だろう。ひとり一人5分の1を与えたら、公平だろう。

では、この5人のうち、2人がケーキを作ったとしよう。時間と努力をかけて、美味しいケーキが出来上がった。1人は、病気で何もできないが、ケーキを食べたら、嬉しくなる。残りの2人は、外で遊んだりして、何も手伝わなかった。まだケーキ1個と子供5人だから、公平な分け方はひとりひとり5分の1だろう。そういえば、それは不公平かのように聞こえるだろう。努力して作った子には、もう少し与えるべきなのではないか。努力の報いの公平の一部であるのではないか。そして、何も悪いことせずに酷い状態に陥った病気な子供にも、ちゃんとケーキを渡したら良かろう。遊び者には、与えるべきだろうか。

より難しい場合がある。例えば、5人には内臓の重い病気がある。1人は、殺して内臓を移植すれば、5人を助けることはできる。この1人は殺してはいけないと殆どの人は言うし、私も例外ではない。しかし、この1人を救うために5人を犠牲とするのは、公平であろうか。5人は悪いことをしたわけではない。運が悪かったに過ぎない。運が悪いのは不公平の代表名である。

さらに難しいこともある。いい親を考えよう。自分の子供に愛情を始め、教養の機会や援助を与える。お金を使って、門出をする場合でもアパートの家賃などを一部出費する。その結果、子供がいい仕事に就いて、いい人生を出港させる。一方、そのような後援はない子は、最低賃金で苦しみながら辛うじて生活を営む。それは公平だろうか。どう見ても、不公平であるとしか言えない。しかし、どうすれば良いのかと問うたら、答えはない。まず、自分の子を養う義務があり、それは公平にするより重要な義務であると言われる。友人を優遇しないと、友人ではないと言えれば、子供はなおさらである。これは重要であるが、さらに深刻な問題がある。普通の親であれば、このような後援は4人に与えられるだろう。世界中のすべての子供を支援できるはずはない。では、支えたり養ったりする子供を4人どうやって選ぶのだろう。選び方は何であっても、不公平である。「最悪な環境にある世界中の4人」と言ったら、まず全く現実的ではないが、指定できても、時間がちょっと経てば変わるし、養われるようになったら、もう最悪の4人ではなくなる。多くの他の子供を飛び越えるからだ。つまり、子供を養ったら、不公平だ。避ける方法は全くない。

だから、「公平」には三つの問題がある。一つは、「公平」の定義だ。公平なやり方は、具体的になんであるのか。もう一つは、公平と他の権利と義務との関係である。不公平にすべきな場合もある。最後に、公平な選択肢は存在しない場合は多いことだ。この三つを考えれば、「公平」という概念は、倫理問題を解決するために何も役に立たないのではないか。私は、使い道は見いだせない。だからこそ、公平な社会を求めずに、なるべく多くの人の最大限の実質的な自由を与える社会を求める。

天皇崇拝

神道の特徴を考えれば、天皇崇拝は見逃してはいけない。今上天皇に限らず、明治神宮の御祭神は明治天皇と昭憲皇太后であるし、北海道神宮の御祭神の一柱も明治天皇である。そして、橿原神宮では神武天皇を祀るし、水無瀬神宮では後鳥羽天皇、土御門天皇、そして順徳天皇が祀られる。全国に各地には天皇を祀る神社が鎮座する。強いて言えば、八幡神社も天皇崇拝と結びつく。なぜなら、八幡様は応神天皇であると言われているからだ。(八幡信仰はもともと天皇崇拝と結びついたかどうかは別な問題だが。)

現在の神社神道を考えれば、皇室の祭祀を重視したり、勅使を祭に派遣されることを重んじたり、伊勢の神宮の皇室とのつながりを強調したりする。これ自体は崇拝には至らないが、その伝統を汲むのは否めない。

この要素は、特に近代日本に強調されたようだ。全国の天皇を祀る神社の殆どは、明治時代以降鎮座された。明治神宮は当然そうだが、橿原神宮もそうだ。江戸時代には、何もなかったそうだ。同じように、明治時代まで水無瀬神宮は仏教の施設だったそうだ。(確か、御影堂だった。)これは、神道を利用して天皇を中心とする国家を築こうとした政治家の戦略だった。江戸時代には、天皇が存在したが、影響力などはほぼなかったが、政府に対する謀反を正当化するために、天皇を掲げた。

しかし、19世紀に真新しい概念を発想して実現したわけではない。飛鳥時代に遡っても、天皇が崇拝されたことも見える。『万葉集』には「神をしませば」という句で天皇を、特に天武天皇を、神として崇める短歌が載っている。同じように、天皇のために祭祀を行った神祇官は神道の歴史に大変重要である。この要素は、古代から神道に見える。

確かに、朝廷から残った資料では、朝廷の祭祀が記されるので当然天皇と深く関わるし、地方の神社の祭祀記録が残ったら、天皇との関係はより薄いだろうが、他の伝統があるからといって、天皇崇拝はないとか、神道の真髄ではないとかとは言えない。客観的に見れば、自然崇拝や祖先崇拝より神道に密接している。

まず、上述した通り、天皇崇拝は明らかに神道の最古の文献で見えるが、自然崇拝や祖先崇拝はその時点でももう曖昧である。そして、現在の神社神道でも、天皇崇拝は重要な一部を占めているが、自然崇拝や祖先崇拝は濃色でない。その上、日本の天皇を崇拝するのは、日本の神道に限ると言える。他の国でそのような信仰はない。だから、宗教や祭祀には天皇崇拝が入れば、その祭祀は神道である可能性が明らかに増す。神道の特徴として、認めるべきである。

芸能制作の監督管理

先日、北川景子さんがDIARYを更新して、仕事柄について語ってくれた。昨日掲載した短歌もこの内容に応えるように作歌したが、今回もう少し具体的に反応を述懐したいと思う。

この記事の中で、「親の死に目に会えなくても、仕事に穴をあけないと誓いなさい」との最初の事務所の社長の発言を紹介する。つまり、役者やモデルの人生にはどこまでの危機があっても、仕事を優先するべきだ、と。東日本大震災の当日に撮影があったそうだし、揺れが収まったら、撮影を再開したという。

業界の構造として、私は許せない。

確かに、役者の代わりに演じられる人はいない。本人ではないと、その人の出番の撮影はできない。しかし、制作を管理する人の役割の一つは、そのような危機が発生してもプロジェクト全体が危機に陥らないように工夫することだ。主演を担う役者の場合、撮影の途中のいつでも、役者が「何かがある。休む」と言ったら、24時間の時間を与えられないと、無責任で、実力も疑わなければならない。同じように、深夜の3時まで撮影が続くことは、北川さんのフェイスブックでのコメントの中でよく出てくる。たまにあるのは仕方がないだろうが、一つのプロジェクトで4回以上発生したら、制作側の実力が欠ける証拠であると思わざるを得ない。つまり、撮影の実際にかかる時間がわからないからそのようなことが発生する。もしかして、全てが上手くいくことを前提としてスケジュールを決めるのではないか。しかし、全てが上手くいくのは、10回に1回程度だろう。5回に1回程度と辛うじて言えるかも。その事実に覚悟して、スケジュールを立てなければならない。

もちろん、例外がある。例えば、あるロケで撮影するが、出来る時間帯は非常に限られている。日が出てから、人が出る前にとか。その場合、時間は決まっているので、別な工夫をする。撮影の順番で、後半の撮影の予定が実現されなくてもなんとか出来る計画は必要だ。

これは、ただの傍からの嘴を出すことではない。Ars Magicaを監督した10数年間、このような工夫を実現するために努力した。原稿が提出されても、問題が発掘されたら修正しなければならない。その修正には、時間がかかる。出版する予定日の前に余裕はなかったら、修正はできない。最初の本は、その余裕はまだなかったが、読んだら分かる。問題が出版まで残っていた。そして、作者にはプライベートの問題があったら、対応できるような工夫も必要だった。それを組み立てるのは、簡単ではないが、監督する人の仕事の一部であると私は信念する。

ただし、芸能界にそのような現実的な構造を導入するために、全体的に改善しねばならないだろう。テレビ会社の計画も変えてもらわないと無理だろう。例えば、原則として連続ドラマの第1話が放送されるまで、最終回の台本を書き終えるのは妥当である。できれば、第1回の撮影が始まる前にそうするべきだ。そうすれば、最終回の展開を最初から示唆したりすることはできるし、主題曲が全体に相応しくなることはできる。しかし、台本は原作に基づかない場合、そのようなことはないそうだ。撮影も、数週間先まで進まないとまずいが、かなり迫っていることもあるようだ。

必要であるのは、芸術作品を作るための環境だが、収益ばかりを見たら、それはできないだろう。業界の全体的な目的を把握しながら計画してほしいのである。