男尊女卑

2月23日付の『神社新報』には、大阪の神職の岡田桃子氏の連載のコラムが載っていた。このコラムは、神職と子育てのことをテーマとして、いつも面白い。今回、その中で下記の文が出てきた。

小学校で「廊下を走らない」と張り紙がしてあるのは、小学生は本質的に廊下をはしってしまふものだからである。しきたりにおいて張り紙のやうに「男は上位」とされてゐるのも、放っておけば男はいつも下位に甘んじてしまふから、なのかもしれない。

これを読んだら、私が笑ってしまった。(ゆり子に読みあげても、反応はなかったので私だけだろう。)それでも、意味深いところもある。繰り返して強調する規則は、破られてしまう規則である。誰も破ろうとしない規則は、あるとしても強調しない。例えば、現代の日本では人を奴隷とするのは違法である。(憲法第18条で禁じている。)しかし、その点はあまり取り上げられていない。現在の日本人は、人を奴隷とすることを考えもしないからだ。極端な例だが、つい最近までイスラエルでナチス党に属することは違法ではなかった。誰もそのことをするとは思わなかったからだ。より身近な例を考えれば、お店で「万引きは犯罪だ」との張り紙があるが、「お店での放火は犯罪だ」との張り紙はない。万引きをする人はいるものの、放火する人は非常に少ないからだろう。

男尊女卑も同じなのではないか。その制度を擁護する人は制度を強調する理由は、強調しないとすぐに崩れてしまうからであるのではないか。普段、男性と女性と接したら、実力や容量は、性別によって決まっていないことにすぐに気づく。天才の男性は確かに存在するが、天才の女性もいる。だから、「男尊女卑」を強調しないと、人が忘れてしまう。繰り返して強調しても、人が女流作家を国の文学の頂点として崇めることもある。紫式部は決して男性ではなかった。男女平等を目指す私にとって、これはありがたい思想である。

しかし、そう言ったら、すぐに反論が思い浮かぶ。男女平等を実現しようとする人は、よく男女平等を唱える。この論理に基づけば、それは平等がすぐに侵されるからに違いない。だから、放っておけば、男尊女卑になるのではないか?

これで、社会関係を考えなければならない。現在の社会は、数千年の男尊女卑の面影が残る社会である。日本なら、男女平等はまだまだ根付いていない。その状況で、男尊女卑に戻る恐れはいつもある。男尊女卑は前からの癖になっている、女性には顕著な実力はない場合、つい男性を優先する虞がある。一方、歴史的に男尊女卑を強調した状況は、古からそのような教えが続いてきたことだった。男女平等の思想が発生する理由は、過去からの癖ではなく、男性と女性の本質的な平等である。


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