性別

2月19日付のNatureには性別についての記事が載っている。記事の趣旨は、性別を男性と女性に分けるのは単純すぎるということだった。極点の例は、子宮の中で男性の胎児と女性の胎児が最初期に合併して、一人の人間には男性の細胞も女性の細胞も多く存在することだ。その場合では、見た目は男性か女性かである場合は多いし、記事に掲げられた例は妊娠中にこのことに気づいたそうだ。一方、70歳の四人の父親は、子宮は手術の場合に見つけられた。それほどの例は異例であるのは確かだが、ホルモンなどの影響で遺伝子は女性であるが、男性に見える人も、その逆の人もいるそうだ。そして、遺伝子は主に女性であるが、男性の遺伝子の一部も偶然に組み込まれ、体型が男性の方に傾く人もいる。

このような人の「本当の性別」は生物学的に言い切れない。子宮を持っている人は女性だろうが、女性に子供を四人儲けた人は明らかに男性だから、明確な判断はない。

この事実は、どういう意義を持っているだろう。まず、一般に「男性」か「女性」から大きく逸脱する例は極めて稀であるので、社会の構成を大きく揺るがさない。私は、知っている限り男性である。子宮は持たないはずだ。(しかし、手術を受けていないので、断言できない。)しかし、男性と女性の絶対的な分け方は良くないのは明らかだ。特に、生まれた時点で男性か女性かを決めさせる法律は問題である。出生届に性別を書かせる方針を改めるべきだ。少なくとも、男性と女性の選択肢に「未定」の選択肢を加えるべきである。記事で、その当事者の話があるが、子供であるうちに自分の性別を感じてくるケースは多いそうだし、その決めた性別は男性か女性かであるので、とりあえずの対策として「未定」を認めるべきだろう。

そして、生まれた時点で片方であったと思われたが、成長に伴って他方であることがわかることもあるそうだから、出生後、届けて性別を変えるための手続きを定めたほうが良い。簡単にゆるしたくなかったら、医師の証明書を必要としても良かろう。このような制度があれば、性同一性障害者に救いにもなるが、その殆どは別な問題であるようだ。(研究はそもそも少ないようだし、私の専門分野でもないので、割合ははっきりわからない。)

しかし、問題の根本的な解決のために、性別の社会的な役割を弱くするべきだと思う。目色のような重要性がよいのではないか。殆どの人は、明らかに「青目」か「茶色目」だと言えるが、曖昧な場合もある。その曖昧な場合は全く問題にならない理由は、自分の目は茶色なところも青いところもあっても、人の「目は面白いね!」という話にうんざりすること外、生活には影響はない。性別の生理学的な影響は目色よりはるかに強いが、社会の構成で最低限に抑えたほうが良いのではないだろうか。もちろん、そうする大前提は、男女平等の徹底的な実現である。


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