記紀神話の神々

イギリスやアメリカで神道について聞けば、神々の名前や神話が知りたい場合は多い。それはもしかしてギリシャ神話の影響だろう。現代のヨーロッパで、古代ローマや古代ギリシャの宗教は、神の名前と話になっているので、多神教を考えれば、そう考えてしまう傾向は強いと言えよう。もちろん、事実は違う。神道では、神社でどの神は祀られているいるかさえ分からない参拝者は多いと言われる。「明治神宮」でも、明治天皇が御祭神であることを知らない人は多い。「八幡神社」という神社であれば、推測できる日本人は少なくないだろうが、「神明神社」の場合、殆どの日本人は言えないと思う。だから、祭祀や儀式のほうが重要だと判断して、祭祀と関わる特徴を先に掲げた。

それでも、神々は重要である。特に、記紀神話に出てくる神々は、儀式に神道の色を添える。だから、その神々をもう一つの特徴とする。

実は、この定義は難しい。天照大御神や須佐之男命、そして大国主大神が記紀神話に登場するが、八幡大神は登場しないと言える。応神天皇と同じように言われるが、古事記や日本書記に登場するのは神ではなく、天皇である。(天皇と神の関係は複雑だから、後ほど論じたいと思う。)そして、白山大神は菊理媛大神とされているが、菊理媛が日本書記の「或るふみ」にしか登場しない。稲荷大神はその名前で出てこないが、稲荷神社によって記紀神話の御祭神が異なる。一方、高皇産霊と神皇産霊の神は、記紀神話に出てくるが神社に祀られることは少ない。そして、歴史は長いが地元の神を祀る神社も少なくない。その上、記紀神話の神名が神社に付けられたのは、明治維新以降だった場合もあるそうだ。その前は、ただ単に地元も産土神だった場合もあるという。

だから、ここで「この神は神道の神であり、他の神は神道の神ではない」と言うつもりは一切ない。しかし、この「特徴」の目的は、ある宗教や儀式を神道にさせる要素を特定することだ。この立場から考えれば、記紀神話の神々はそうだが、他の神はそうではない。新しい儀式を発想して、開始すれば、その場の山の神を祀ったら、それは神道になる?なるといいたい人はいるだろうが、それは神道の文脈で考えているからだ。山は北アメリカにあるとすれば、そして儀式の内容は北アメリカの原住民の形とそったら、山を崇拝することは、神道の色を添えないだろう。一方、同じく北アメリカで原住民の作法を導入して、天照大御神を崇拝すれば、神道の色が付いているのは明らかである。

「記紀神話」の制限はちょっと狭いと訴えられたら、認める。風土記や万葉集、そして先代旧事本紀などに登場する神々も認めるべきであろうが、その範囲をすぐに定義することはできない。ただ「日本で長く崇拝された神々」とすれば、神道より仏教に属する神々も混えられるので、慎重に考えなければならない。

つまり、古から神道の神々として認めてきた神々を拝む儀式には、神道の色があると言いたいのである。


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