公平

倫理的な論争になると、「公平」という概念を掲げる人は少なくない。公平であるべきと言ったら、抗議できないだろう。「いや、不公平にすべきだ」と強調するのは難しいし、説得力は極めて乏しい。しかし、「公平」は、一体何だろう。

簡単な例を考えよう。ケーキを1個ある、子供は5人。子供は皆ケーキが食べたいのだ。では、公平な分け方は何だろう。ひとり一人5分の1を与えたら、公平だろう。

では、この5人のうち、2人がケーキを作ったとしよう。時間と努力をかけて、美味しいケーキが出来上がった。1人は、病気で何もできないが、ケーキを食べたら、嬉しくなる。残りの2人は、外で遊んだりして、何も手伝わなかった。まだケーキ1個と子供5人だから、公平な分け方はひとりひとり5分の1だろう。そういえば、それは不公平かのように聞こえるだろう。努力して作った子には、もう少し与えるべきなのではないか。努力の報いの公平の一部であるのではないか。そして、何も悪いことせずに酷い状態に陥った病気な子供にも、ちゃんとケーキを渡したら良かろう。遊び者には、与えるべきだろうか。

より難しい場合がある。例えば、5人には内臓の重い病気がある。1人は、殺して内臓を移植すれば、5人を助けることはできる。この1人は殺してはいけないと殆どの人は言うし、私も例外ではない。しかし、この1人を救うために5人を犠牲とするのは、公平であろうか。5人は悪いことをしたわけではない。運が悪かったに過ぎない。運が悪いのは不公平の代表名である。

さらに難しいこともある。いい親を考えよう。自分の子供に愛情を始め、教養の機会や援助を与える。お金を使って、門出をする場合でもアパートの家賃などを一部出費する。その結果、子供がいい仕事に就いて、いい人生を出港させる。一方、そのような後援はない子は、最低賃金で苦しみながら辛うじて生活を営む。それは公平だろうか。どう見ても、不公平であるとしか言えない。しかし、どうすれば良いのかと問うたら、答えはない。まず、自分の子を養う義務があり、それは公平にするより重要な義務であると言われる。友人を優遇しないと、友人ではないと言えれば、子供はなおさらである。これは重要であるが、さらに深刻な問題がある。普通の親であれば、このような後援は4人に与えられるだろう。世界中のすべての子供を支援できるはずはない。では、支えたり養ったりする子供を4人どうやって選ぶのだろう。選び方は何であっても、不公平である。「最悪な環境にある世界中の4人」と言ったら、まず全く現実的ではないが、指定できても、時間がちょっと経てば変わるし、養われるようになったら、もう最悪の4人ではなくなる。多くの他の子供を飛び越えるからだ。つまり、子供を養ったら、不公平だ。避ける方法は全くない。

だから、「公平」には三つの問題がある。一つは、「公平」の定義だ。公平なやり方は、具体的になんであるのか。もう一つは、公平と他の権利と義務との関係である。不公平にすべきな場合もある。最後に、公平な選択肢は存在しない場合は多いことだ。この三つを考えれば、「公平」という概念は、倫理問題を解決するために何も役に立たないのではないか。私は、使い道は見いだせない。だからこそ、公平な社会を求めずに、なるべく多くの人の最大限の実質的な自由を与える社会を求める。