数ヶ月前に、このブログで批判の回避について投稿した。その趣旨は、何かを批判するより、好ましいことを賞讃したほうが良いということだった。アメリカでの出来事を傍から見たら、さらにその良さを痛感したが、やはり絶対的な鉄則にするべきではない。例えば、漂白剤を飲まないように教えるために、漂白剤を飲んだらどれほどひどいことが発生するというべきだろう。「漂白剤を飲まないことで良いことがある」と言ったら、具体的に指摘しようとしたら、「死なないことだ」と言うしかない。それは、言葉の形で判断すれば好ましい結果を挙げるが、事実上批判となっている。だから、批判を避ける理由を考えて、基準をちょっと考えたいと思う。
まず最初に、じっとすることは適切な選択肢にならない場合は多い。その場合、避けるべき行動だけではなく、やるべき行動を提案したほうが良かろう。そうしないと、さらに好ましくない道を選ぶ恐れさえある。肯定的な提案があれば、受け入れてもらわないだろうが、どうすれば良いかは分かってもらうはずだ。そして、提案は一つに限らなくても良い。複数の好ましい選択肢を上げれば、相手は自由を奪われるような気持ちにならないだろう。(これは、提案する選択肢は本当に違う場合に限る。)最後に、肯定的に掲げる選択肢を魅力的に描写できる。北風と太陽の話のように、そのような誘いのほうが有効である場合は少なくない。この三つは、説得力の立場から考える利点であると言えよう。
そして、提案する側にも利点がある。好ましい行動を具体的に考えたら、そしてその魅力について具体的に考えたら、自分の提案の本質をよりよく理解する。自分の方針はなぜ良いのか、なぜ他の人に賛同してもらいたいのか、はっきり把握する。そう考えれば、自分の推薦する行動の詳細も明らかになるし、適切ではない場合には提案しなくなる。その上、自分の中でもこの行動の魅力をよく分かって、自分の方針を再確認できる。一方、方針には間違いがあったら、気づく確率も高くなる。その場合、自分の過ちを避けたり直したりすることはできるので、自分にとっての利点にもなる。
社会的に考えれば、大きなメリットがあると思う。批判が飛び交う社会で、人が対立感を増すので、妥協を探ることが次第に難しくなる。アメリカでは、その結末が露わになっている。一方、肯定的な提案が掲げられても、葛藤にならないだろう。一人の人間はすべての提案に従えるわけはないので、選択するのは当然だ。そして、肯定的な提案を上げるために、相手の欠点を見ない。むしろ、自分の方針の利点に目を向ける。そうすると、自分の道にさらに自信を持って、他人が別な道を選んでも我慢できるようになるかもしれない。
この利点を考えれば、やはり出来る限り、肯定的な提案の利点を指摘して、自分の方針を勧めるべきなのではないか。