失敗することは良いことではない。漢字を見ればわかる。「失う」と「敗」で、何かを失った敗北したことを表す。そして、失敗したことがある方は、その気持ちが良くないのは痛感した。失敗したことはない方はいないだろう。人間は、失敗する。
普通の感覚は、失敗を最低限に抑えるように頑張る覚悟だ。私も賛同する。失敗しないように頑張ると良いし、失敗が生じないような制度を構えるのも良い。
ただし、一概にそう言えない。
新しいことをしようとすれば、新しいことを発見しようとすれば、新しい機械を発明しようとすれば、失敗する可能性は極めて高い。新しいことだから、可能であるかどうかさえわからない。可能であるとしても、やり方は誰も分からない。分かりやすい例を掲げよう。ある人は、神武天皇の山稜を探そうとする。(畝傍山にある山稜は別であると信じているからだ。)どこへ探せば良いかは、分からない。そして、神武天皇は実在していなかった可能性は極めて高いが、そうなら山稜はもちろんない。実在したとしても、畝傍山にある山稜は神武天皇の山稜である可能性も高い。つまり、この人が探す的は存在しないだろう。存在しなければ、成功に終わる確率はゼロ。だから、個人から見れば、そのようなことをしないほうが良い。そのようなことをするのは、ある意味で変わった人に限る。より厳しく言えば、狂った人に限る。
成功の道が存在するかどうかさえ分からずに、人生のすべてを投じて、賭けて頑張れば、完全な失敗に終わる恐れは明らかだから、するべきではない。
一方、社会の立場から見ればどうだろう。社会の立場から考えれば、なるべくしてほしいことだ。なぜなら、失敗に終われば、その損失は個人に着くが、成功の利益は社会全体に広がるからである。それに、その利益は莫大なものである場合も少なくない。青色LEDは記憶に新しい例である。その発明でノーベル賞を受賞したし、世界中の光が変わったが、それに失敗したら何もない。ただ使えない材料の発見にとどまる。論文として出版することさえ難しい。
だから、社会の構成を考えれば、このような失敗を招く行動を促すのは良い。どうやってそうすれば良いのだろう。一つは、そのようなことに失敗した人を軽蔑しないことだ。というより、まだ成功に至っていない方を軽蔑しないことだ。学界では、いつもと違う方法で問題と取り組んでいる人を除外するべきではない。確かに成功しない限り、尊敬を集めないだろうが、少なくとも除外したり軽蔑したりしないようにしたほうが良い。今は違う。確かにこのようなことをする人の大半は間違って、何も成功できないが、例外のために寛容したほうが良い。
そして、このような取り組みを進める間に生活を立てるような工夫も必要だ。これは、ただ実質的な自由を保障することだから、このブログで方法を何回も論じてきた。
この二つは充分であるとは思い難いが、より具体的な促進が思い浮かばない。ただ、この方針で生じる失敗を歓迎するべきだ。このような失敗は大成功のために存在しなければならない。
コメント
“失敗の歓迎” への2件のフィードバック
ChaosiumのBasic Roleplaying systemでは行為に成功して初めて技能を伸ばすことができますが、実際は成功からよりも失敗からの方が学ぶことが多いのではないか、と感じていたことを思い出しました。
WhiteWolfのWorld of Darknessでもセッション中に学んだことをPCに説明させ、それによってキャラクタは経験値を得たいたり、また『Ars Magica 5th』では得られる経験値は個別の行動の成否には影響を受けなかったりしていて、そうした成長システムに心地よさを感じています。
鮎方様、コメントをありがとうございます。そうですよね。実は、ちょうど今Kannagaraの成長システムを考え始めましたが、成功と失敗とキャクターの行動を取り入れるシステムはいいと思っています。実現できる方法を今考えています。