家柄主義と能力主義

ヨーロッパの中世の社会は、家柄を重視して職業を決めた。親の職業を受け継ぐのは基本だったし、貴族は権力を握った。(子供を儲けるべきではない神父は例外だったが、その場合でも強い影響があった。)江戸時代以前の日本も同じだった。このような社会構成は、自由を厳しく制限する。一番苦しむのは、低収入のきつい仕事に強いられた人だが、権力者も、権力者であることは脱却できなかったので悪影響が社会全体に及んだ。その体制を覆すために、能力主義は唱えられた。家柄ではなく、能力によって職業を配布するべきであるとの主張だった。

これは、やはり家柄主義より自由をもたらす。なぜなら、多くの人には複数の能力があるからだ。科学者になる能力を持つ人は、美術家になる能力も持っている場合がある。そして、能力は低いとしても、職業の選択肢は一つではない。家柄主義を倒して、能力主義を建てたことで、自由を増したと言える。

ただし、完璧ではない。そのことは、左翼の不思議な傾向に見える。

それは、左翼の研究科は、能力の継承性を強く否定する傾向である。普通に考えれば、ある予想は継承されるかどうかは、単純に科学で検討する事実である。政治的な意味は持っていない。例えば、左翼でも肌色は親から継承されることを認めない学者は存在しない。特にアメリカで肌色に関する大きな社会問題が存在するとしても、だからと言って肌色は継承されていないと誰も言わない。むしろ、継承されているこそ、肌色が出世に影響を及ぼさないように社会を改善するべきだと強調する。

では、能力はなぜ違うのだろう。

それは、左翼の人は、特に左翼の学者は、能力主義を強く強調するからだと私は思ってきた。家柄や肌色に気にせず、職業などを能力に基づいて配布すべきだと強調する。しかし、能力は親から継承されたら、能力主義は家柄主義とそれほど異ならない。生まれつきの状態に苦しい生活に渡された人も少なくない。左翼の学者は、そのようなことを信じたくない。その結論を避けるために、能力は継承されていないと強調するしかない。しかし、継承された要素は多いのは証拠によって明らかにされた。能力の差の半分ぐらいは、遺伝子によるそうだ。親の育て方も加えたら、さらに高くなる。(遺伝子の影響は、別々に育った一卵性双生児の能力を測ることでわかった。一緒に育った人の能力も似ている。)つまり、親に自分の子供を育てる権利を与えれば、社会的な地位が能力主義の社会では継承される。

では、能力主義を捨てて、能力の継承性を認めない理由は何だろう。肌色の問題で、肌色主義を捨てたし。その理由はもしかして次の通りなのではないか。左翼の学者は、高能力者である。学者になるために、平均をかなり上回る知的能力を持たなければならない。だから、能力主義を捨てれば、学者の生活が危うくなる。家柄主義に反対した貴族と全く同じような感覚である。

もちろん、こうではない可能性もあるが、研究によって定かになった結果に反対する理由はかなり強い理由ではないと、理解しがたい。


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