依代

神道の祭祀の中心には、依代は必ずある。依代というのは、神様が憑依するものである。一般的に御神体は依代になるが、神籬も依代である。大神神社の場合、依代は三輪山自体であると言われる。

依代の重要な共通点は特定された場所にあることだと思う。つまり、祭祀の場合、神道の神様は指で指すことができる場所に坐すと思われる。これは、キリスト教やイスラム教と大きく違う。キリスト教では確かに像がある。特にカトリックやギリシアの正当教会では、絵画や石像をが重要な位置を占める。ただし、その物は神様や聖の象徴にすぎない。神様は像の中にいると思ってしまう一般人はいるとしても、それは大きな間違いとして神父などによって正される。一方、神道では神様は本当に依代に坐すと思われる。神様はどこにも行けるとも信じられるが、祭祀の場合依代に降臨して、祭祀に臨むと思われる。だから大きな祭りは、降神の儀で始まり、昇神の儀で終わる。祭祀の最初に神様を招いて、依代に憑いてもらい、祭祀が終わればまた帰ってもらう。

普通の神道の神観念では、依代は神様自体ではない。依代は神様の座席に過ぎない。実は、古式ゆかしいの神社では、依代は座席である。こもと言われる座布団が依代になる神社も存在するし、1300年以上前の神社ではいわくらという意思は神の座席であり、神様がその岩の上に座って祭祀に臨むと信じられたようだ。まさに、いわくらの普通の漢字は「磐座」である。天皇が即位する際の大祭の大嘗祭でも、神の依代は座布団である。これは一番古い形式だと思われている。

そして、記紀神話に記載されているように、物に神霊が憑くと思うようになった。日本書紀の天孫降臨の話で、天照大御神は八咫の鏡に霊が憑くと言うことがあるので、鏡を神社に安置することは多いそうだ。三種の神器の剣と勾玉も依代として珍しくないそうだ。このような依代は「御神体」と言われているが、普通は見ることはできない。禁足地と同じように、年限の目に乱れに曝せるのは良くないと思われている。

仏教の影響を受けて、神像が平安時代から普及したようだ。この場合、御神体は神様の彫刻になる。しかし、他の御神体と同じように、普段は見ることはできない。

山などを御神体とする場合は、もしかしてより正確に言えば、山は神が坐すところであると考えれば良かろう。滝や岩石の場合も同じだろう。これで遥拝場の現象に見える。遥拝場は、遠くにある神様を祀るための場所であるので、その場には御神体はない。その代わりに、神が坐す場所に向けて拝礼する。だから、大神神社の拝殿は、遥拝場であるとも考えられる。神の依代は山の上にあるが、それに近づかずに拝礼するために拝殿ができたと言えよう。

依代の形は多種多様であるので、その形を特徴とすることは難しい。確かに鏡、剣、勾玉は伝統的であるし、臨時祭祀の場合の神籬も伝統があるので、そのような依代を使う祭祀は神道色を濃くするが、一般的な特徴として、祭りの対象とする神の位置を特定することを挙げよう。


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