話の枠作り

先日、安倍総理大臣がアメリカ連邦議会の合同会議に演説した。演説の内容は当然日本とアメリカの関係を中心とした。安倍首相の留学経験の逸話から安全保障や貿易交渉までの現在の話題を取り上げて、抽象的な約束をした。それに、終戦70年のことに触れて、アメリカの戦没者の追悼を表したし、戦後の同盟を強調した。もちろん、これも抽象的だった。合同会議の前の演説は、そもそも詳細を説明する場ではないのだ。

それでも、英語のメディアの反応に共通する点は、慰安婦問題についての具体的な謝罪をしなかった批判である。

そのような謝罪は必要であるかどうかをさて置きに、これはおかしいのではないか。

まずは、慰安婦の殆どは中国人や韓国人であった。この問題に強い関心を持つのは韓国と中国である。改めて謝罪することにしたら、アメリカ連邦議会の前は適切な場ではない。韓国で韓国に謝罪して、中国で中国に謝罪するのは適切なのではないか。政治的な問題を考えれば、アメリカの議会の前で謝罪すれば、議員が反応しなければならない。それに、その場で反応する。韓国の謝罪の評価がアメリカの評価と違ったら、韓国とアメリカの間の摩擦を生じさせる。倫理的に考えれば、謝罪は、被害者に対して申し上げるべきなのではないか。アメリカは被害者ではないので、アメリカに謝罪するのはどういうことかと思うだろう。だから、安倍首相が謝罪としても、アメリカの議会で謝罪するわけはない。

その上、前述のように、このような演説は具体的な詳細を述べる場ではない。慰安婦の人数を挙げて謝罪するわけにはいかない。特定した戦犯を指摘することさえ、相応しくないだろう。

だから、この演説の状況を考えたら、慰安婦問題の謝罪を予想するはずはない。

では、何で批判されたのだろう?

これは、話の枠作りである。色々な人が、この演説でそのような謝罪を期待していたと言ったり、謝罪するべきであると述べたりして、この演説には慰安婦の謝罪はないと問題であるという見方を固定させた。固定してきたら、また変えようとしてもできなくなる。「重要なことを無視しようとしている」と批判される。唯一の対策は、最初から別な枠作りに努めることだ。

話の枠作り自体は悪いことではない。むしろ、必要な動作である。枠はないと、話はうろうろして、まとまらない。その上、話し合う人は話し合う話題を把握しない。しかし、枠は、話へ過大な影響を与える。客観的な枠は存在しないので、無意識的にでも意図的にでも、話が始まる前に参加者が枠で話を構成しようとする。その枠は合理的ではなくても、一旦築かれたら倒すのは困難である。

今回の演説は、安倍首相が口を開ける前にもう一部失敗に終わることは決まっていた。