進化論と倫理

倫理学と進化論の関係は論争の焦点になっている。進化論から考えて、人間はある価値観を持ってきたと言われ、その価値観は「自然」であるから護持するべきであるか、むしろただの生物学的な事実であるので倫理的な意味はないかと結論づけられた。

先日、2012年に米国のEthicsという論文雑誌に出版された論文を読んだ。この論文で他の哲学者からある基準が取り上げられる。

倫理などについてある説がある。この説は、ほとんどの人間が賛成する。つまり、この説に反論する人はいないと言っても良い。特に、この分野について真摯に検討したり究明したりした人の多くは、この説に辿り着く。これは、説を信じる理由になると思われる。間違いだったら、多くの人が同じ間違いに辿り着くとは思い難いからだ。しかし、この論理を覆す現象がある。もし、この説は、進化論で説明できれば、事実である証拠がなくなる。進化論で説明するというのは、人間が進化によって発生したことを前提に、その過程で発生することに役立つ説であることを指す。

例えば、殆どの人は、自分の子供を愛したり養ったりするべきであると思う。しかし、進化論から考えれば、これは簡単に説明できる。進化論によると、普及する生き物は、生き残る子孫を多く持つ生き物である。哺乳類であれば、自分の子供を養ったら子孫が多くなるのは当然だ。だから、自分の子供を養う義務が本当にあってもなくても、人間はそう思うと推測できる。だから、殆どの人がそう考える現象は、客観的にそうするべきである証拠にはならない。間違いであるとしても、皆が同じ間違いに辿り着く現象を簡単に説明できる。

もちろん、これは間違いである証拠にもならない。子孫を多く残すために真実を信じたほうが良い場合もあるので、必ずしも間違っているとは言えない。しかし、意見の共通性は証拠にならないので、他の証拠を掲げない限り、客観的に良いことであると思う根拠は全くない。

進化によって発生する意見は倫理的に間違う場合もあるとも思われる。例えば、自分の共同体以外の人に対して敵対感を持つことは人間として普通の心理だし、進化論によって簡単に説明できる。他の共同体は自分の共同体と競争するので、自分の子孫の将来を保護するために他の共同体を倒せば有利である。しかし、この結論は倫理的に間違っていると多くの人が思う。

これは、論文で掲げた理論に近い。論文で、善意を一般的に持つべきという倫理的な原則は、進化論から見れば説明し難いし、多くの哲学者がこの結論に辿り着いたので、もしかして真実であると思えるのではないかと主張する。一方、自分の利益を優先する原則は、進化論の立場から説明できるので、真実である証拠はない。

しかし、大きな問題がここで生じる。

求めるべきこと、目標とするべきことは命の保護や繁栄と結びつくという結論は、進化論上簡単に説明できる。自分の生き残りや繁栄、それに家族や共同体の命や繁栄を重視すれば、子孫を残す確率が増す。だから、多くの人が命と繁栄を良いと思っても、それは客観的に良い証拠にはなれない。死と苦しみは本当に客観的に良い可能性は排除できない。それより、命と繁栄も、死と苦痛も同じように根拠がある。(双方には根拠はない。)一般的な善意を持つとして、「善意」の内容は「命と繁栄の推進」であるか、「死と苦痛の推進」であるかによって、やるべきことは大きく異なる。だから、この論文の論理を広く使ったら、客観的な倫理について大変な結論が出る。

この理論には説得力があると私は思うので、客観的な倫理についての知識は得られないのではないかと思ってくる。

(取り上げた論文は、’The Objectivity of Ethics and the Unity of Practical Reason’, Katarzyna de Lazari-Radek and Peter Singer, Ethics 123:1, pp. 9-31, 2012)


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