橋下氏の引退と政治家の役割

昨日、大阪都構想の賛否を問う住民投票の結果は発表されたが、反対が賛成を僅かに上回ったので大阪市が存続することになった。私は大阪市に住んでいないので、大阪都構想自体について特に意見を持っていない。利点や欠点はよく分からないが、論争に詳しくないのでそれは当たり前だろう。住民投票の結果について言えるのは、僅かの決着はいつもちょっと問題であることだ。するかしないかという二者択一だが、やはり大阪の住民の半数ぐらいはどちらの結果になってもがっかりする。その場合、妥協案はないかと思う。

ただし、この投稿で取り上げたい話題のは、橋下氏の反応から発生する。橋下氏は、今の大阪市長の任期が終われば、正解を引退することを表明した。その理由は明らかだし、明言した。大阪都構想は橋下氏の主要の政策だったし、維新の会の目的と存在理由だったので、その構想が実現しなくなったら、引退するのは当然だと思うだろう。確かにそのように考えられる。

しかし、私はそう簡単に思えない。確かに、橋下氏は引退するべきだろうが、そう認めたら政治家になるべきではなかったと私は主張したい。

一つの問題に専念して、自分の活動の勝敗の試金石とすることは、活動家に相応しい。活動家は、例えば男女平等を掲げて、様々な政治家に働きかけたり、世論を高揚させたりする活動で、その実現を目指す。実現されれば、勝利だ。実現しなかったら、失敗だ。もう少し親切に評価すれば、成功の度合いは、平等への近づきによって測るので、完全に平等にならなくても、大きく改善すれば、成功したと言える。別な活動家は環境問題を掲げるし、もう一人は難民の救いを、さらにもう一人は近所の再開発の賛成か反対かを。これは活動家の役割だが、民主主義の社会では必要不可欠な役割だ。情熱を込めてこの重要な問題と取り組む人はいないと、弊害が永遠まで続いてしまう。そして、この問題は、一つ一つややこしくて、奥深い。現状を把握して、効果が期待できる改善策を構想するために、時間も知識も努力も必要である。そのような努力は複数の問題に注ぐことは物理的に無理だ。だからこそ活動家は専門家であるべきだ。大阪都構想を掲げる活動家は適切な存在であるし、失敗に終われば引退しても良い。

一方、活動家にはなりがちな問題がある。自分の問題の重要性を過剰に評価するし、自分の問題と取り組まない人を無責任として批判する問題だ。これは自然である。活動家は、自分の問題を重要に思うし、多くの場合本当に重要である。男女平等も環境問題も難民問題も世界規模で重要な問題だ。再開発は地域にとって死活的な問題だ。この態度は一概に間違っているとは言えない。それでも、一概に受け入れることもできない。一人の人間のように、社会の能力にも限度がある。全ての問題を同時に解決できない。顕著な例は環境問題と貧困問題だろう。途上国の飛躍的な経済成長は、貧困問題の解決策であるが、環境問題を悪化すると予想できる。どうすれば良いかは、簡単に答えられない。

これは政治家の役割だと私は思う。政治家は、活動家の声を聞いて、一般の国民の声を聞いて、専門家の声を聞いて、全てを視野に入れて妥当な政策を決める役割だ。だから環境問題と地方創生の妥協案を探って、両方の活動家をある程度がっかりさせるのは政治家の役割なのではないか。そう考えれば、一つの目標が達成していない事実で、政治家として引退するわけはない。ある政策が失敗に終われば、政治家の役割は新しい現状の改善策を探ることだ。(自分の誤解などに基づいた失敗だった場合、責任をとって引退することもあるが、住民が案を僅かに否定したことはそのような結果ではない。)

ある特定した目標を実現させたかったら、活動家になるべきだ。政治家になるのは、自治体や国の住民の利益を必要な工夫を持って実現するためだと思う。根本的に異なる。