川崎市外国人市民の差別経験

川崎市外国人市民意識実態調査の報告書で、私が分析して執筆した部分は差別経験についてのテーマ別考察である。このところについてちょっと更に自分の意見は述べたいと思う。ここで述べる意見は、市の意見ではないし、調査チームの意見ではない。単純に私の個人としての見解である。

このテーマについて、日本で収集されたデータは殆どないような印象を持っている。在日外国人を対象とする調査は、今までこのような問題を扱ったことは少ないようだ。より実践的な問題を重視したからだ。例えば、雇用問題や住居の問題を詳しく調べた。欧米では、このような人種差別の問題は極めて重視され、よく取り上げられる。だからと言って、日本でも重要な問題であるとは限らないが、検討しない限り問題の実態は分からないので改善は必要であるかどうかさえ分からない。問題があるとしたら、問題の輪郭を把握するのも必要だ。だから、このような調査は重要だと思った。

報告書で詳しく説明したが、ヨーロッパ連合で行われた差別についての調査結果と比較した。その比較の結果は、日本での差別の経験は、ヨーロッパ連合での差別経験と相当することだった。今回の調査の目的はヨーロッパ連合の調査との比較ではなかったので、比べにくいところもあったが、だいたい同じ確率が示される。

これで言えるのは、川崎市には人種差別の問題がある。詳細は場所によって変わると思えるが、川崎市が日本をある程度代表すると思えなくはないだろう。つまり、特別に日本の問題ではないが、世界中に見える問題は、日本は例外ではない。だから、日本でも人種差別を取り上げて、対策を構えるのは良いと思わざるを得ない。

しかし、重要な相違点もある。ヨーロッパやアメリカで、人種によって差別の程度が明らかに変わる証拠は多い。例えば、ヨーロッパでロマという人たちは、特に差別を受ける。アメリカで、黒人は被害者になる。一方、日本では人種によっての差は認められない。確かに、個別の分析で違いは見えた。例えば、暴力を恐れる差別は、東南アジアの人は被害を受けることは比較的に多いようだが、一方警察官に呼び止められる経験は、欧米人は多い。だから、人種によって経験の性質が変わる可能性は十分ある。(インタビュー調査でこの点についての情報が得られればと思う。)それでも、深刻さを比べるのは難しい。暴力は大変だし、国家の力を具現化する警察官からの差別も大変だ。だから、報告書にも書いてあるが、欧米人の日本での差別経験は軽いとよく言われるが、この調査結果は川崎市でそうではない証拠になっている。

実は、差別の頻度は低い人種は、東アジアの人だ。それは、韓国・朝鮮人、中国人、台湾人を指している。いわゆる「在日韓国人」も含まれている。(特別永住者の意味だ。この文脈で、在日外国人についてばかり論じているので、言い方として良くない。)このような人は、外見から見れば日本人に非常に似ている。

この点を踏まえて、日本での人種差別についての仮説は立てられる。仮説に過ぎないので、これから更に証拠を集めないと擁立できないが、調べたら良いかと思う。その仮説は、日本人は、外国人に対しての否定的な気持ちは殆ど持っていないが、自分の経験や文化の外から来た人に対して不安を感じて、ちょっと排他的な行動をとる傾向がある。そうすれば、どのような外国人であることは重要ではないので、大きな差は発生しない。その上、私が日本人から聞いた外国人についての意見もこのようなことである。そうであれば、過去と違う。過去は、韓国・朝鮮人に対しての敵対的な態度はあったことは知られている。しかし、態度は時間とともに変わる。

この仮説を裏付けるために、まず日本の各地で同じような調査を行わなければならない。川崎市は特別であると思う理由はないが、それは証拠ではない。そして、日本人に外国人への態度について調査すれば良い。

原因は本当にこうであれば、解決策は比較的に簡単である。日本人に外国人との接し方を教えたら、問題は消えていく。比較的に簡単であるとはいえ、具体的なやり方は明らかではないので、この問題について更に考えたいと思う。このデータで、取り組む材料が得られた。

話の枠作り

先日、安倍総理大臣がアメリカ連邦議会の合同会議に演説した。演説の内容は当然日本とアメリカの関係を中心とした。安倍首相の留学経験の逸話から安全保障や貿易交渉までの現在の話題を取り上げて、抽象的な約束をした。それに、終戦70年のことに触れて、アメリカの戦没者の追悼を表したし、戦後の同盟を強調した。もちろん、これも抽象的だった。合同会議の前の演説は、そもそも詳細を説明する場ではないのだ。

それでも、英語のメディアの反応に共通する点は、慰安婦問題についての具体的な謝罪をしなかった批判である。

そのような謝罪は必要であるかどうかをさて置きに、これはおかしいのではないか。

まずは、慰安婦の殆どは中国人や韓国人であった。この問題に強い関心を持つのは韓国と中国である。改めて謝罪することにしたら、アメリカ連邦議会の前は適切な場ではない。韓国で韓国に謝罪して、中国で中国に謝罪するのは適切なのではないか。政治的な問題を考えれば、アメリカの議会の前で謝罪すれば、議員が反応しなければならない。それに、その場で反応する。韓国の謝罪の評価がアメリカの評価と違ったら、韓国とアメリカの間の摩擦を生じさせる。倫理的に考えれば、謝罪は、被害者に対して申し上げるべきなのではないか。アメリカは被害者ではないので、アメリカに謝罪するのはどういうことかと思うだろう。だから、安倍首相が謝罪としても、アメリカの議会で謝罪するわけはない。

その上、前述のように、このような演説は具体的な詳細を述べる場ではない。慰安婦の人数を挙げて謝罪するわけにはいかない。特定した戦犯を指摘することさえ、相応しくないだろう。

だから、この演説の状況を考えたら、慰安婦問題の謝罪を予想するはずはない。

では、何で批判されたのだろう?

これは、話の枠作りである。色々な人が、この演説でそのような謝罪を期待していたと言ったり、謝罪するべきであると述べたりして、この演説には慰安婦の謝罪はないと問題であるという見方を固定させた。固定してきたら、また変えようとしてもできなくなる。「重要なことを無視しようとしている」と批判される。唯一の対策は、最初から別な枠作りに努めることだ。

話の枠作り自体は悪いことではない。むしろ、必要な動作である。枠はないと、話はうろうろして、まとまらない。その上、話し合う人は話し合う話題を把握しない。しかし、枠は、話へ過大な影響を与える。客観的な枠は存在しないので、無意識的にでも意図的にでも、話が始まる前に参加者が枠で話を構成しようとする。その枠は合理的ではなくても、一旦築かれたら倒すのは困難である。

今回の演説は、安倍首相が口を開ける前にもう一部失敗に終わることは決まっていた。