「葬送儀礼」から見る”日本の伝統”

5月18日付の『神社新報』に興味深い記事が載っている。この記事は、座談会の記録だが、葬送儀礼についての話だ。最初は『神社新報』によくある形だった。「家の墓がなくなりつつある。それは、戦後の制度は家の崩壊だったからだろう」のようなこと。しかし、すぐに転換した。宮城県の例が挙げられた。

東日本大震災の後で、あるところに遺体が多くあった。火葬する方法はなかったが、もちろんそのままに放置するわけにはいかなかった。だから、住民と行政との交渉の結果、仮埋葬が許された。しかし、条件は、可能になったら火葬の形式で本葬することだった。そして、数ヶ月以内火葬がすべてできたそうだ。この話からわかるのは、どのぐらい火葬の重要性が宮城県に根ざしていることだろう。埋葬はあくまでも臨時の措置としてしか認めない。

しかし、学者の一人は、40年ぐらい前に宮城県で葬送の研究を行っていた。その時点、お年寄りは「最近火葬が普及されているね。ちょっと嫌だね。亡くなったら、熱くなりたくないしね。」のような取材の結果は多かった。つまり、40年前を考えれば、宮城県の伝統は埋葬だった。葬送の形が40年間で、つまり1世代で一変した。

そして、話が続くと、家の墓の慣習は、それほど古くないことが明らかになった。実は、幕末や維新の時代から普及したという。つまり、戦後から衰えるとしたら、100年程度の習慣だった。それは「日本の伝統」であれば、宝塚劇場は明らかに伝統である。歴史はほぼ同じだし、衰退していないからだ。歴史を遡ったら、同じような変更は多いそうだ。

それに、「日本の文化」について話せるようになったのも最近であると同意したようだ。つまり、過去を見れば地方によって、そして社会の階級によって文化が大きく違ったようだ。特に印象的なことは、平安時代や鎌倉時代には、庶民の間に祖先崇拝が行われた証拠はないようだ。貴族ならそうだったが、一般の人は遺体を捨てたそうだ。個人的に考えれば、1000年前の人でも、身近な人が亡くなったらゴミのように捨てるとは思い難いので、もしかして研究不足なのではないかと思う。ヨーロッパの中世の庶民の習慣を研究するのは極めて難しいので、日本も同じだろう。それでも、祖先崇拝の証拠はなければ、少なくとも重要な社会的な慣習ではなかったのは明らかだ。そうだったら、何かの証拠が残るはずだからである。

この詳細は新鮮だったので、興味深かったが、このような概念は歴史を勉強すればすぐに明らかになる。伝統は、以外と早く変遷する。人が訴える「伝統」は、ほぼ例外なくその人の子供のころを体験した状態である。だから、伝統は、過去の習慣を部分的に継承する存在だから、時代に合わせて変遷するのは自然なことだ。


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