日枝神社の朔旦祭

先日(というか、もちろん6月1日だったが)久しぶりに日枝神社朔旦祭に参列した。「久しぶり」と言ったが、厳密に言えば初めてだった。前は、「お一日まいり」の名称だったが、この投稿を書く時点ではホームページのタイトルはそのままである。内容では、名称が変わったけれども。

名称が変わった根本的な理由は、今年4月1日には日枝神社では新宮司が就任したからだ。変わったのは、名称だけではない。祭祀も大きく変貌した。開始前に前から知り合った参列者と話し合って、変更があるように言われたので、拝殿のなかでびっくりすることにならなかったが、本当に変わった。

主に言えば、簡略化。その動機は、話によれば、参列をもう少し容易にするためだったそうだ。古式の祭祀は、75分程度かかった。9時ぐらい始まり、10時15分以降終わることは多かった。新式の祭祀は、9時ぴったりに始まり、9時45分前後に終わる。確かに平日に1時間以上を取るのは難しいので、この変更は歓迎する。内容の変更を見れば、感想は複雑だ。

まず、祭員の数は減少された。前は神職12人程度と巫女さん3人ぐらいだったが、今は神職は8人で、巫女さんが行列には加わらない。そして、供饌の儀は簡略された。前は、神前では5人がいて、御饌を正中を超えて手渡しながら供えた。今は、神前は二人になっているし、御饌は正中を超えない。そして、斉唱する大祓詞は完全に削除された。教育勅語の斉唱も同じだ。御幣の儀も無くなった。巫女舞はまだ奉奏されるが、その後の鈴の儀は省略。最後の宮司の短い演説もなくなった。その上、摂社末社のお参りは、玉串奉奠のみになっている。

個人的には、教育勅語の削除を自然に思う。神事の中でちょっと合わないと最初から感じたからだ。大祓詞の省略はちょっと残念に思うが、祭祀の途中で唱えるのは確かに疑問視できる。祓えは、祭祀を開始する前に済ませるべき儀式であるからだ。御幣の儀と鈴の儀は、単純に惜しむ。

一方、一番良かったと思った祭祀の要素は保たれている。それは、参列者は一人一人玉串を奉奠することだ。代表者ではなく、皆は自分の玉串を自然に奉る。これは時間がかかる部分だから、省略の対象になりえたが、生き残って良かったと思う。

その上、直会の形も新しくなった。古式では、摂社末社での祭祀の前に直会があったが、拝殿で並んでした。時間もかかったし、祭祀の途中で直会をするのは確かに不思議である。(直会というのは、ここで祭祀の後で御神酒をいただくことを意味する。)新式で、祭祀が完全に終わってから、祭員と参列者が顔を合わせて並んで、回路で直会する。位置付けも雰囲気も良くなったような気がした。

個人的に思えば、御幣の儀には時間がかかると認めても、少なくとも鈴の儀の復活は良いのではないかと思う。しかし、私は宮司であるわけではない。

それでも、この変更で祭の本質について考えさせられた。それについて、後日書かせていただきたい。


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