祭祀の本質

祭祀は、どういう存在なのだろう?先日の変貌した日枝神社の朔旦祭に参列していた間にもその問題について考えさせられた。

よく言われるのは、日本の先人たちから受け継がれた伝統であるとの定義だが、やはりそう簡単な問題ではない。伝統を尊重しないと祭ではなくなるとしたら、日枝神社でこの祭は存在しないし、私が参列したのは祭ではない。しかし、私はそう思えない。むしろ、明らかに祭祀だったと思わざるを得ない。もちろん、伝統を汲まなければならないが、それ新しい要素を入れてはダメとか、調整してはいけないなどの意味ではない。

では、祭は基本的に何なのか。

神社関係の書類では、「神明奉仕」というが、その「奉仕」は主に祭祀を執り行うことであるようだ。だから、祭祀は原則として祭神のためのものだ。宗教の儀式はよくそうであるので、これは驚くほどではないが、詳しく考えれば、祭神のために何をしているのかと考えたいと思う。

確か柳田國男が指摘したが、神道の祭祀には「まれびと祭祀」の色は強いと言われる。つまり、祭神は遠いところから訪ねたきた「お客さん」で、その祭神を持て成すことは祭祀である。だから神饌を奉ると言われる。つまり、神饌は本当に神様の食事のつもりである。幣帛はそもそも布であったので、それは神様の服装になる。そして、祝詞は、神様を歓迎する挨拶であるとも言える。神楽は、神霊を慰めるための奉仕であるとも言われる。神様が神社の本殿で常住するようになっても、祭祀は食事を奉るための行動である。実は、伊勢の神宮では、年中行事の多くは朝晩のお神饌を奉る祭である。神楽の意味も同じであるが、祝詞はやはり挨拶として考えられない。

そう考えれば、祭祀はある意味で催し物である。ただし、対象は参列者ではなく、神様である。

祭祀の中では、大別したら二つの種類があると言えよう。(他の分け方もたくさんあるが。)それは、神様のための祭と氏子崇敬者のための祭である。後者は一般人が経験するほとんどの祭であろう。昇殿参拝すれば、それは祈願祭とか七五三詣りとか結婚式などであるが、その祭の目的は参列者の事情に基づく。前者は、祭神の事情から発生する祭であると言えよう。毎月執り行う祭はそのような祭の候補になるのではないか。

神様のための祭であれば、どうすれば良いのか。まずは、神饌をなるべく豪華にするべきだろう。そして、神楽を奉奏するのも良い。玉串を奉奠することは、敬意を表す意味合いとして捉えれば、それも適切である。祝詞の内容は、願い事を入れるべきではない。感謝も避けたほうが良かろう。感謝は、相手に心遣いすることだが、自分の事情を主題とする。だから、祭神の立場からの祭を目指せば、願いも感謝も除外するべきであろう。一方、報告は適切だろう。神社を取り巻く状況を神様に知らせるのは神様を考えることだからである。そして、祭神の意思を尋ねるのも相応しいだろうが、そのような祝詞は最近少なくなったようだ。神様が答えると思わない神職は多いからだろう。私も疑わしいと思うが、理論的に考えれば、それは相応しいのではないか。

このように見れば、神様のための祭祀には参列者を対象とする御幣の儀と鈴の儀は相応しくないと言える。ちょっと残念に思うけれども。そして、参列者のための祭儀ではないので、参列者はそもそも少ないとも思える。

このことは、さらに考えたいと思うが、ちょっと概念がはっきりしてきたような気がする。


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