5月の『神社新報』には、平田国学の霊魂観についての連載が載った。平田篤胤は江戸時代の晩期の国学者で、本居宣長の自称弟子でもあった。宣長以前の国学者は検証を重視したが、篤胤は違った。体系的な宗教的な思想を出した。その中で、人間の霊魂は神の魂と根本的に同じであることを述べたし、もともと産霊の神からでて、死後大国主神によって裁かれ、善良であったら高天原で天照大御神と一緒に永遠に続くと説いた。多神教だが、キリスト教との共通点は目立つ。篤胤は、19世紀に日本に入り始めたキリスト教の知識から影響を受けたのではないかと思う学者もいるそうだ。
しかし、魂についてこのようなことを言う根拠は何だっただろう?古事記や日本書記にはそのような内容は載っていないし、吉田神道の霊魂観も違った。そう考えれば、古事記の霊魂観を信頼する理由は何だろう。古事記は、日本書記と同じように、8世紀初頭にその前の資料や口伝に基づいて編纂されたそうだが、その古代の文書を書いた人は、どうやって霊魂について学んだのだろう。もちろん、この問題は神道の霊魂観に限らない。聖書なども同じだ。確かに、神様が内容を教えたと言われるが、それも検証するべきことであろう。
そして、そのようなことを言えば、人が信じてしまう。信頼できそうな人が言ったら、根拠があると思い込んでしまうことは多いからだ。霊魂についての話を信じた人は、自分の人生をその話に基づいて変えることは充分予想できる。だから、そのような話を掲げる人は、責任を持って掲げるべきだ。気軽に何となくそうではないかと思うことを言うべきではない。それに結論だけではない、証拠と論理も表明しなければならない。「神様が私だけに言った」という説明であれば、私は信じられない。まず、仮に本当にそのような神託があったとしても、それは信頼出来る神様からの話か、騙そうとする鬼からの話かをどういう風に区別したかという問題にも考慮するべきだ。実は、一人だけにそれほど重要な情報を伝える存在は、そもそも信頼出来る神様ではない。一方、この情報は伝統であろうか、口伝であろうか、最初にどこから来たかは重要な話である。歴史の場合、それは納得できる答えを挙げられる。「最初に言った人は、この出来事に立ち会った」と言えるからである。科学でも、「最初の人は、自分で実験を行った」と言える。(これは簡潔な言い方だが、意味は問題なかろう。)
霊魂についての話で、そのような根拠は見えない。「神様からの神託」とか「幽霊からの情報」などの疑わしい根拠ばかりだ。
それでも、霊魂は存在しないことは言い切れない。先にも述べたが、人間には意識があることは、今のところ科学的な説明の糸口さえないので、もしかしてまだ把握されていない霊魂が存在する。しかし、その霊魂について、現時点では何も言えない。存在しないことも、科学的な証拠に基づいても言えない。
つまり、今なら、責任のある霊魂観は「分からない」とはっきり言うしかない。