霊魂証明

先日、責任のある霊魂観について投稿したが、今日の考えをさらに繰り広げたいと思う。

神道や神社について話せば、個人的にちょっと躊躇することがある。神の存在に触れずに話すことはできないが、神は存在するか、そのような存在であるかは、分からない。古事記に書いてあることも、宣長の定義もよくわかるが、それが実存する存在を指すかどうか、分からない。神道はキリスト教のような信条を重視する宗教であったら、大きな問題だったが、神道はそうではない。祭祀や儀式を行うのは重要だが、その奥にある存在についてどう信じるのかはほとんど問われていない。そのため、参拝や祈願祭などは問題ない。ただし、その奥の存在について、やはり何か知りたいのだ。

もちろん、本殿に侵入して御神体を観察するわけではない。それは無礼であるし、必要な情報も提供しない。御神体が存在することは疑わない。(御神体はない神社もあるが、その場合、御神体はないことは疑わない。)知りたいのは、神のことだ。

キリスト教の場合、同じようなことを言う人もいる。しかし、キリスト教の神は、知ることはできない。ある存在は全知全能ではなかったら、キリスト教の神ではない。しかし、全知全能であることを証明することはできない。知識は豊富で、力も目覚しいことは証明できるが、それは全知全能に遥かに及ばない。同じように、キリスト教の神は倫理的に完璧であるが、これも証明できない。だから、キリスト教の場合、証拠は存在できない。

幸い、神道は違う。神道は、純粋に読んでも、神社には霊的な存在が鎮座するし、祝詞などを聞いて、場合によって応じると信じている。これは証明できることである。もし霊的な存在から答えがあったら、そしてその答えは第三者に見せられるものであったら、証明できる。

では、証拠の存在は可能だが、具体的にどうやって得れば良いのか。もちろん、実験室でネズミを対象とする検討することはできない。神が存在すれば、尊い存在であるので、失礼な行動はできない。だから、敬意を表しながら実験することはできないと何もできない。

また、幸いである。歴史的に見えれば、神道には神様の神慮を伺う祝詞や祭りがあった。確かに最近少なくなったとは否めないが、歴史的な神道は無礼ではなかったら、そのような祭りなどは許されるはずだ。それでも、内容でも敬意を表す必要がある。もちろん、神は存在しないなら、敬意は不要となるが、存在する可能性に配慮しながら進むべきである。

具体的にどうしたら良いかは、後日に考えさせて頂く。


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