神饌の実験

神様の霊魂的な存在を確認するために、実験は必要である。証拠を得なけれならないからだ。そして、目立つ超自然的な現象はない限り、(そのような現象はあったら、もう気付いたはずだと思われるので、ないと思ったらよかろう)統計的な分析で影響が明らかになる設定は必要となる。統計的な分析をするために、何回も同じことを繰り返さなければならない。それは統計学の根本的な性質である。一方、神様に対して、情報収集のために同じことを繰り返すのは失礼なのではないかと思うだろう。だから、失礼とならないことを考えなければならない。

そして、もう一つの重要な条件がある。この実験で、神様は霊的な存在であるかどうかを検討するので、その能力について何も知らない。つまり、超自然的な能力を前提とする行為は不適切である。例えば、翌日のニュースなどの予言を求めたら、正しい答えが出てこなくても、それは神様は将来は見えないからであると考えられる。私にも明日のニュースについて聞いたら、正しい答えは少ないだろうが、私の存在や意識は全く疑わしくない。

幸い、ピッタリの候補が存在する。それは神饌のことだ。神社では、日供は基本的な祭祀だが、その内容は神饌を奉ることだ。毎日するのは決まっているので、失礼ではないことも決まっている。というより、それは神様に対して失礼であれば、神社神道は最初から駄目である。実験の結果はそのような結論になる可能性を忘れてはならないが、この段階で神様の霊的な存在さえ分からないので、敬意を表すと言われる行為を選ぶ。出発点は必要不可欠である。

そして、神様に欲しい神饌を尋ねることはできる。神様には神饌の好みがあると言われるが、神様は自分の好みがわかるのは間違いないだろう。自分の好みさえ分からない神様は、崇敬するに相応しいかどうかは不明である。だから、霊的な意識のある存在の神様がいれば、毎日神饌を奉るべきだし、神様の好みの神饌を奉ると良いとも思える。少なくとも、失礼ではない。もちろん、神様の好みの推測して、その神饌を奉っても、神様の存在の証拠にはならない。実験をするために、神様に欲しい神饌について尋ねてから奉ると良い。そして、表された好みを分析して、何かの存在が答えているかどうかを調べる。

このような実験は絶対的ではない。例えば、神様は全ての神饌を等しく好きになる場合は、偶然との違いは見えないだろう。そして、尋ねる方法には問題がある可能性もある。強いて言えば、神様は存在を曖昧のままにするために、答えをバラバラにする可能性さえある。一方、何かの結果があるとしても、神様の存在を絶対的に証明するとは言えない。神様の力ではなく、実験者の力である可能性もあるし、答えている存在は神道の神様だと言えない存在である可能性もある。ただし、神道では「神様だと言えない存在」は非常に少ないので、実験者の関与であることを排除できたら、「何か」が存在することはわかるだろう。

絶対的な結果は欲しいだろうが、科学ではそのような結果はほとんどない。このような実験は同じである。今の証拠は全くない状況から一歩出るのは重要なのではないかと思う。


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