難民の受け入れ

最近、ミャンマーからの難民が国際的な危機になっているそうだ。(日本であまり報道されていないようだけれども。)難民を受け入れる国は少ないようだ。そのため、人が苦しんだり死んだりする。これは改善するべき状態であるのは言うまでもないだろう。しかし、どうすれば良いかは、簡単な課題ではないのである。「何かしなかればならない。これは何か。だから、これをしなければならない」という論理は、政治の揶揄として流行っているが、適切な対策を選ぶのは難しい。

まずは、ミャンマーを侵略して、難民の根源を切る方法はない。過去を見れば、難民問題を深刻化するしかないし、国際法律に違反するし、日本の場合明らかな憲法違反でもある。だから、すぐにできることは、難民の受け入れぐらいだろう。

では、問題を考えよう。まずは、安全を確保しながら、難民を母国から受け入れる国まで運ばなければならない。受け入れのは隣国に限らなければ、費用も必要だし、段取りも必要。そして、受け入れは隣国に限ると問題になるのはよく知られている。隣国にも政治的なもんだいがあることも多いし、受け入れられる人数には限度もある。

ただし、今日特に考えたいのは、受け入れることを前提として方針の問題である。特に遠い国に難民を受け入れたら、そして先進国に受け入れたら、結局帰国しない難民は多い。第二次世界大戦の前にヨーロッパを逃げ出てアメリカについたユダヤ人の多くは、アメリカに住み着いた。人がある国に長く住み続けることを考えれば、一般の社会への溶け込みは課題となる。長期的に摩擦なしに住むために、難民と国民との間の乖離感はないことは必要不可欠だ。

これに問題が生じる。まず、難民には住む国の言葉を学んでもらわなければならない。言葉が通じないと、溶け込むことは到底無理であるからだ。そして、難民は一緒に住むことも避けなければならない。一緒であれば、難民同士の絆を結んで、母国語で話したり中華街のような自分の区域を作ったりする。しかし、そのような区域が存在すれば、乖離感が湧いてくる虞がある。ヨーロッパにはそのような傾向が見える。だから、それを抑制する措置をとるべきだ。

しかし。避ける措置は、難民を分散して住ませることになる。一緒に住ませるわけにはいかないので、それしかない。そうすれば、もう生活が災害や政治的な抑圧によって破壊された人は、友人や親戚からさらにかけ離れた場所に強制的に置かれる。精神的な支え合いが不可能となる。これも明らかに良くない。

この投稿で、問題を指摘することからあまり前に進まないと思うが、段階的な措置は良いのではないか。最初は一緒に学寮のようなところで住んでもらって、ある程度国語を身につけたら分散して様々なところで住んでもらうことはあり得る。その詳細は難しくなるに違いない。そして、受け入れる国家からの支援額が高額になることも予想できる。言語教育、社会教育、就職支援、居住支援など、その全ては必要となる。

難民問題と真摯に向き合うことは、容易ではない。


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コメント

“難民の受け入れ” への1件のコメント

  1. kotaroのアバター
    kotaro

    ロヒンギャ難民問題は君の祖国であるイギリスの悪行が元凶である。
    彼らはイギリスが引き取るのが道理であろう。

    The source of Rohingya people’s suffering are U.K.
    Ignorance is a sin