『神社新報』では、神社の境内で不敬な行為を憂える記事がぼちぼち載る。神職の立場から考えれば、当然に感心なことであろう。ただし、この問題は簡単ではない。
例えば、若者が下着姿で境内でもみ合ったら、それは不敬な行為だろう。一方、奉納相撲は神事の一部になることは少なくない。その場合、家までもないだろうが、若者が下着姿になってもみ合う。確かに厳密に言えば下着ではないが、神社によって下着より露出する褌になる。極端な話だが、宗像大社の沖ノ島に上陸する前に、素っ裸にならなければならないそうだが、それは不敬な行為ではない。むしろ、服のままで上陸するのは不敬である。
だから、敬意を表すか、不敬であるかは、振る舞いそのものによって決まっていない。振る舞いとその環境によって決まる。例えば、土足のままで拝殿に上がるのは不敬であるが、イギリスのキリスト教の教会は逆だ。入る前に靴を脱ぐと、ちょっと変な感じで、不敬であると思われるだろう。
ここまでは、考えれば当たり前だろう。日本でお辞儀するがイギリスで握手するなどの作法の違いは誰でも知っている。しかし、もうすこし踏み込んで考えれば、面白いことがある。
不敬な行為は、その環境、例えば神社によって許されない行為だ。だから、神社はその内容を変更することは簡単にできる。単純に許すようにするか、それとも許さないようにするかによって、変わる。歴史的にそうだったが、歴史的ではなく、すぐに変えることも視野に入れたほうが良かろう。
例えば、観光客の受け入れを考えよう。観光客の服装は、普通にカジュアルだ。動きやすい、快適な服装は重要だ。そして、着替えることはできない。着替えはもしかして外国にあるかもしれない。日本人の観光客でも、遠いところに置いてきた可能性は高い。だから、適当な服装を昇殿参拝に許したほうが良いのではないか。そうすれば、観光客も参拝できるようになる。もちろん、昇殿参拝はちょっと特別な行動であることを強調したいので、忌衣を服装の上に来てもらうことはできる。それは簡単にその場でできることだから、壁にはならない。
そして、子供の遊びもそうだ。神社の境内で子供が遊ぶことは適切であると決めたら、子供の笑い声で境内が賑わうことはあるだろう。首都圏の神社にお参りすれば、境内に遊具は設置された神社も少なくないので、この感覚はもう普及していると思う。同じように、『神社新報』に報道されたが、ある神社で毎年コスプレイヤーの撮影会を開くので、境内でアニメからの仮装で歩き回ったり写真を撮ってもらったりすることは不敬ではない。
一方、何かを不敬にするのは慎重に考えなければならない。人を叱る言い訳を作るわけにはいかない。だから、禁じる行為を慎重に考えなければならない。
それでも、「なんでも良い」と言ってはいけない。神社の境内は一応聖域だから、敬意を表すことを重視するべきだ。それは、敬意を表す方法を用意することと同じだ。なんでもよかったら、敬意を表す方法はない。境内は特別な区域だから、ちょっと特別な振る舞いをしてもらったほうが良い。例えば、鳥居でお辞儀してもらって、そして手水もしてもらうことはその一例だ。誰でもできることで、日常との区別をはっきりする行為は良いし、伝統に基づいた行為も良い。しかし、現実的なことは、神社によって異なる。誰もいない神社であれば、物を必要とすることは難しいだろうし、手水を用意することさえ難しい。神社ごとに決めてもらうのは良いのではないか。そして、特別な祭りであれば、参加するためにもう少し難しいことがあっても良い。例えば、上述の奉納相撲に参加するために、褌に着替えなければならない。それも、非日常な区域に入った実感を与えるために良い。これも、祭りの内容や神社の伝統や環境によって決めたほうが良いだろう。
つまり、敬意を表す行為があると良いが、その行為の内容をなるべく広く人を受け入れるように決めたほうが良いし、そう決める自由があることは強調したいのだ。