隠し事

ほとんどの人は、周りの人から隠すことがある。場合によって、隠すことは良くない。例えば、犯罪者はそのことを隠すのは当然だが、好ましい状況は犯罪しないことで隠す必要をなくすのだ。社会が悪い例もある。例えば、つい最近まで同性愛者は、自分の恋愛を隠さなければならなかった。それは隠さないほうが良いので、社会の改善は必要だったし、実現されつつある。その上、社会は特に悪くはないが、本人が恥ずかしがることもある。例えば、40代の男性はプリキュアが大好きだったら、隠す可能性は十分あるだろう。プリキュアが好きであっても、何も悪くはないし、問題は友達がふざけることぐらいで済むが、披露したくない。このような問題は、大分前だが、触れたことがある。隠したくならない社会環境のほうが良いのではないか。

しかし、最近考えれば、もう一つの理由があるのではないかと思ってきた。

人に自分に関する事実を披露したら、それで社会的な期待を実現することは多い。例えば、「頭痛がある」と言ったら、周りの人にはちょっと静かにしたり、眩しい光を目に当てないでしたりする期待が存在する。いる人は少ない場合、そのために言うことも多いだろう。しかし、仮に幼稚園児は数人いるとしたら、そしてお母さんたちもいるとすれば、言わないことにすることも多いだろう。「頭痛がある」と言ったら、お母さんたちは、子供に静かにさせるようにするのは予想できるし、そうするのは大変で、幼児が癇癪したり悲しんだりすることも予想できる。だから、何も言わずに我慢する。

このような隠し事は悪くないかもしれない。社会的に、周りの人が言った状況に配慮することは良いので、配慮する予想や期待があると良いと言える。心遣いや配慮は、特に日本で重視されている。ただし、そのような社会である限り、周りの人に配慮して隠さなければならない場合もある。

それは些細な問題には限らない。頭痛は些細なことだ。ひどい頭痛であれば、それを理由として退場したら良い。しかし、自分の人生にとってとても重いこともそうだ。例えば、親が亡くなったことを考えよう。もちろん、親のことを知っていた人に知らせなければならないが、例えば仕事関係の人には言わない。言ったら、期待が発生するからだ。しかし、そのような期待を発生させたくないので、自分にとってとても重いことであるのに、周りの人に配慮して言わない。

これ自体は悪くないと思う。誰でも乱れに言ったら、そのような発言を無視しなければならないことにもなる。それは、態度としてよくないし、癖としてもよくない。他の人の苦しみを無視する癖は、残虐な行為とさえ繋がりかねない。一方、隠すことが癖になったら、披露するべき身近な人に対しても隠してしまうだろう。

やはり、人生は全面的に複雑な存在である。


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