神道の学び方

最近のNatureで、科学者の育成についての特集があった。教育や育成の研究の結果は曖昧ではないそうだ。学ぶ内容と積極的に取り組めば、その内容の理解も記憶もより深く、より鮮やかになるという。これは確かに私の経験に沿っている。それは学生としての経験も、先生としての経験も同じである。日本論理検定協会で、論理などと積極的に取り組ませる検定の作成を目指した。神道も例外にならないと思われる。実は、去年神社検定の構造についての投稿を書いて、このような理解を促す設問を検討した。しかし、それは検討についてだったので、積極的な取り組みを含める教え方に触れなかった。今回、その立場から考えたいと思う。

科学や論理の場合、「積極的な取り組み」の内容は比較的に明白である。科学的に、もしくは論理的に問題と取り組むことだ。例えば、疫病の発生を見立てて、その対応を決める問題で、疫病の流行り方や治療法などについての知識を確認して、理解する。そして、学生にとって、楽しい。ただ先生の言うことを鵜呑みして、丸暗記することではないからだ。

では、神道の場合はどうするか。

神職の養成講座で、祭祀の奉仕は実践的な取り組みになるが、ただ決まった作法に従うことは多いようだ。自分で作法を新しく発想することはあまりないようだ。そして、神職ではなく、一般の人を対象とする教育はどうだろう。確かに、神社に参拝して、祭りに参加するのは一つの重要なことだと思う。それで作法を見覚えるし、祭祀の次第も自然に感じるようになる。ただ本で読むより効果的だろう。もちろん、本を読むことも大事だけれども。

神道の基本は祭祀だ。神を祀ることは神道の道であると言える。だから、積極的な取り組みを実現するために、祭祀を利用するべきだと思う。

つまり、祭祀を作成することだ。それは、祭祀の神饌も祝詞も神楽なども作法も装束も含めることだ。目的は、その祭祀を実施することではない。それより、祭祀の作成では神道についての知識や理解を深める。例えば、祝詞作文では神話を取り入れることは多いが、その祭祀の目的にとって適切な神話を利用するのは重要だ。そして、神饌にも伝統があるが、その広い伝統に基づいて独特な神饌を決めて、祭祀の目的に合わせる。装束も神楽も作法も同じだ。現在の決まったものは接待的ではないので、歴史を考えて様々なことを取り入れたら、本格的に理解するだろう。

もちろん、これは勉強のための措置だから、祭祀の構造には間違っている要素も入ってしまう。勉強している間にそれは避けられない。だからこそ、祭祀を実現する予定ではないことを繰り返して強調する。上述の疫病対策も実現するわけにはいかないが、これも同じ理由で同じことは言える。全くふさわしくない祭祀でも、勉強には役に立つこともある。例えば、人を祟るための祭祀は行うわけにはいかないが、祟り神などを勉強することに当たって、その作成が役に立つだろう。私も、この学び方を実現するかもしれない。