さらにパソコンの問題

パソコンはまだ壊れている。

金曜日に、アップルのAppleCare Serviceから修理済みのパソコンが届いた。それは良かった。もちろん、ハードディスクは交換されたので、私のデータは全部なくなった。実は、送る前に削除した。そのため、最初にするのは、復元だった。届いた説明書にしたがって、普通の復元の手続きを開始した。

復元するデータは750ギガだったので、24時間以上がかかったが、それはしかたがない。しかし、昨日の夜になって、パソコンが自動再起動した。

そして、失敗した。有効なシステムは見つからないというエラー。

もちろん、もう1回試したが、同じ結果だった。そして、修復のシステムに再起動して、ハードディスクを修復した。問題は無かったというが、まだまだ起動できない。しかたがないと思って、ハードディスクを消去して、もう一度復元することにした。

しかし、消去はできなかった。消去しようとすれば、パソコンが自動再起動する。もちろん、数回繰り替えして試したが、いつも同じ結果だった。一夜置いて、今朝も試したが、また同じ。

送る前には、パソコンには問題はなかったので、アップルが壊した。(完璧な技術はないので、このようなことがある。潔く回復に応じてくれれば、深刻な問題ではないと思う。)今日また電話して、修理してもらうしかないが、また送ったり送ってもらったりすることになるし、戻ってくると24時間の復元もあるので、少なくともさらに数日使えない状態になる。ブログへの影響はまた予想されているので、ご了承ください。

「巫女とセックス」のマンガ

神道の勉強の一貫として、神道と関わるマンガも読んでいる。専門家ではない人は、神道をどう見るか、どう描くか、興味深い。このブログで数回に亙って紹介したが、巫女の経験がある漫画家もいるし、ある神社と関係を築き、詳しく研究する漫画家もいる。そして、超自然的な話を作るために、神道の神話などを利用する漫画家もいる。その中で、見逃すわけにはいかないジャンルは、「巫女とセックス」である。このマンガも読んできた。

私は、前にも述べたが、性的な行為は悪いとは思わないし、描くことは必ずしも悪いとも思わない。それに、万葉集から古代神道には性的な神事も存在したのは明らかなので、セックスと神道を結びつくこと自体も悪くない。それでも、「巫女とセックス」のマンガの多くは拙い作品と感じる。それはなぜなんだろう。

一つの理由は、エッチなマンガの本質を考えれば明らかになるだろうと思う。本質は、性的な行為を描いて、その性的なこと自体で楽しんでもらうことだ。つまり、マンガの楽しませるところは、性的なことが描かれていることだ。(この本質は、マンガに限らないと思う。写真集にも映画にも見えるが、その影響はあまり変わらないような気がするので、ちょっと多く読んだマンガの事例で論じる。)漫画家には一人前の腕力は必要だが、それがあれば、可愛いキャラの裸を描けば、はい、御仕舞。もちろん、性交の場面も描いても良いが、同じようにそれができたら御仕舞。つまり、本質を果たすマンガを作るために、それほど考えなくても良い。

それに加えて、考えても意味はないだろう。なぜなら、「巫女とセックス」のマンガには、神道の歴史や神話、伝説を深く研究して、それを巧みに取り入れたストーリーを構成して、そして登場人物の正確や発展に力を尽くしても、ほとんどの人は「巫女とセックス」のマンガとしてきっぱり見捨てるからだ。その無駄な努力をするものか。

ところで、問題の前半はセックスと関連する作品に限らない。子供向けの特撮にも見える。そのような番組で、今週の化け物との戦いがある限り、問題はないし、子供は深い話を理解しないし、評価しないので、努力しないような誘導がある。しかし、この場合問題の後半はないので、場合によって頑張って作る人もいる。

エッチマンガでも、一概に怠け者の作成であるとは言えない。(それはひどい言い方だ。ただ裸やエッチを描写するマンガでも、並ならぬ努力は必要だが、それは作品を生み出す最低限の努力だ。)実は、読んだマンガの一つは、『たまふり』というタイトルで、神道の背景をちゃんと取り入れて、話の展開に気をつけて、ネタも考えた。文学の頂点から程遠いといえども、マンガとして少なくとも悪くはないと思った。

一方、もう一つはただセックスを描くためのマンガだった気がした。その上、そのセックスは、巫女たちに強制的にやらされたセックスだった。確かに話の中でそれは良くないことで、巫女が苦しむことも明記されているし、そして最後の会報されたので、このような行動を好適に描写していないと言うだろう。しかし、上述のように、エッチマンガで性的な行為自体を楽しませる内容として載せるので、この場合それは読者が強制的な猥褻行為を楽しむ意向にほかならない。それは問題であると思わざるを得ない。ただし、それは別な問題になるので、後日に論じたいと思う。

神の祭りの内容

神のための祭りを考え始めたのは、もう十分前のことになっているが、ここで祭りの内容についてちょっと考えたいのだ。

祭りの前の修祓はもちろんのことだ。祓えずに祭りを行ってはいけない。考えるべきは、奉納と祝詞だろう。

奉納するものは、神様をもてなすためのものにするべきだ。それは普通の神饌とそれほど変わらないが、好物なの伝統があれば、このような祭りで供えるべきだろう。神楽などを奉納して神様を楽しませることも良かろう。そして、祝詞で・・・

この点で、考え直す必要を感じる。この考えの前提に立ち戻ろう。

前提は、まず、神様は本当にいること。そして、神様はどの存在であっても、神社で行われたことを感覚して、把握する。その祭祀によって、神様の気分が変更する。例えば、祈願祭であれば、依頼を叶えるような気持ちにさせると思われるだろう。その上、神様は神社に常住しているとも思える。古代の神道ではそうではなかったが、平安時代以降このような概念になっているようだ。では、詳細はいかがだろうか。神社の祭祀の歴史を見れば、食事の提供は歓迎されるようだし、衣類の奉納も、神楽の奉納も良いようだ。柳田氏などによって指摘されてきたが、祭りは来客をもてなすような形を持っている。

実際にこうであるかどうかは、別な問題としよう。前にはその問題についても触れたが、神様は存在しなかったら神道の概念を大きく変えるべきだろう。まずは本殿を禁足地とする必要はなくなる。むしろ、特別な祭りの時には氏子崇敬者は本殿に入らない限り、本殿がある意味はない。神様はいないからである。だから、とりあえず神様がいる前提で考える。

では、その前提で考えれば、毎日の祭りはどうすれば良かろうか。食事を供えるのは当たり前だ。神楽を毎日奉納するのは、ほとんどの神社にとっては事実上無理だから、省く。

それで、祝詞のことが残る。しかし、毎日の祝詞の内容をどうすれば良いかは、簡単な想像ではない。毎日同じことを奏上すれば、神様は飽きてしまうのではないか。一方、毎日のための新しい祝詞であれば、神社の負担がまた重くなる。負担の問題は解決されたとしても(神職は数人いるか、創造力は強い神職がいるか)、内容はまだまだ問題だ。依頼はもちろんだめだ。この祭りは神様のためであるので、依頼してはいけない。では、報告は良かろうか。それは一つの可能性になるだろう。毎日、その周辺の出来事を報告する。(報告祭は神社祭祀の一部であるし、境内での建造物が竣工された報告祭さえあるので、神様は周りのことに気づかない前提があるようだ。考えれば、それはちょっと不思議だ。「ところで、神様、新しい本殿ができた。」「本当?気づかなかったなぁ。」)

もう一つの候補は、神様の意志を尋ねる祝詞だ。つまり、神様はどうしてほしいのかを確認する祭りにする。

そして、最後の一つの候補は、感謝祭である。神様のご加護に対する感謝を表す祭りだ。

やはり、人生の目的と同じように、祭りの目的を考えれば問題が難しくなるね。このことについて、もう少し考える。