『マレフィセント』

先日、ちょっと自由な時間があったので、去年ロードショーしたディズニーの映画『マレフィセント』を見た。前から見たかったし、楽しかった。

しかし、映画を見るとしても、仕事の感覚が動くので、映画の構造を考えないで済まなかった。

まず、最後の転換は十分前から明らかだった。映画は眠りの森の美女の話を、悪魔女の立場から語るコンセプトだから、粗筋は最初から予想できるだろう。つまり、マレフィセントは結局悪役のままにならないこと。ディズニーの子供向けの映画だから、確実だ。その詳細も、表現の選び方などから考えれば、わかった。ある時点で二つの選択肢があったが、ちょっと進めばその一つがなくなった。ただし、昔話だから、最後の結末を予想するのはこのジャンルの特徴だと言えよう。この点は良しとする。

ただし、全体的な構造にちょっと問題を感じた。マレフィセントの背景と歴史を紹介しなければならないので、オーロラが登場するのは、映画の半分ぐらいが経ってからだ。そして、「序文」のような話が全体の大半にならないように、話がよく飛ばした。今考えれば、話を時間の流れに沿って語るのは間違いだったのではないかと思う。

映画の開始は、マレフィゼントがオーロラの洗礼祭に登場して呪いをかけるところは良かろう。(そのシーンは本当によかった。)そして、オーロラの成長を見ながら、マレフィセントの記憶を上映すれば良くなると思う。マレフィセントの夢を映せば、前の出来事を見せることはできるが、夢の内容の変遷によってマレフィセントの気持ちの変更をより鮮明に見せられるのではないかと思った。例えば、最初のところで、翼が切断されたことをよく思い出したり、人間の国との戦いを思い出したりする。一方、オーロラと仲良くなるとともに、その前の生活を思い出して、結局ステファンと仲良しだった時代も思い出す。

しかし、このような時間配列でしなければ、もしかしてほとんどの人はついて行きにくくなるだろう。確かに、ステファンの思い出を見せないと、話の全ては明かすことはできない。子供向けの映画なら、そのようなことに配慮しなければならないのは良く分かるが、映画創作に才能を持っている人は、解決策は見つけられるのではないかとも思う。例えば、最後の方に、マレフィセントがオーロラに話を説明すること。それは詳しければつまらなくなるが、その前に過去のシーンがあったら、全体像を明らかにすれば、だれでも分かるだろう。

もしかして、作成工程でこのような構造があった段階もあっただろう。そして、試して見せれば、話についてこない人は多かったかもしれない。その場合、修正するしかない。それでも、作品として、構造の問題で傑作にはなっていないと感じざるを得ない。

まぁ、否定的な言い方で終わりたくない。映画を楽しめたし、よくできたところも多かったので、一回見たら値があると思う。


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