人生の目的

大きなテーマだね。残念ながら、具体的な提案はない。

ただし、少なくとも一応の目的はないと、生活は送ることさえできない。人生の目的を「仕事」としたり、「家族」としたりすることでも良いし、ぼんやりと考えても良いが、何もないと動けない。そして、極めて難しい問題である。哲学や宗教の歴史を見たら、提案は山ほどあるが、その提案の間に大きな矛盾がある。過去の提案をちゃんと検討して、自分に適し得ている目的を選ぶことに長い歳月が必要となるだろう。それに、現在の状況は過去と大きく異なるので、過去の提案が現在の人間に適しない可能性も十分あるが、自分で新しく目的を発案することは、極めて難しい。ほとんどの人にとって、無理と等しい。

だからこそ、ほとんどの人は考えずに周りの社会の提案に乗って生きるのではないかと思われる。学校で「受験して、大学に入学して、そして大手会社に就職する」という道から逸脱することはしない理由は、逸脱するほどの理由はないからだ。努力や勇気が必要となることは、相当な理由はないとしないのは通常のことだし、当然でもある。

これは当然だが、危ない。このような傾向が弾圧と戦争と繋がった事例は数え切れないほどある。日本の歴史にもあるが、イギリスの大英帝国もその一つだ。その時代のイギリス人は、帝国を管理する仕事を目指すことを当然としたからこそ、世界の過半数を支配した。そして、多くの国へ被害を齎した。

こう考えれば、社会の責任は大きい。提供する人生の計画は、他の人や国にとって有害ではないように尽力しなければならない。しかし、誰がその力を尽くすかというと、候補が思い浮かばない。首相はそのような大きな問題と取り組む余裕はあろうか。もちろん、「天皇を仰いで、奉仕するべきだ」という人もいるが、それはただ一つの提案にすぎないし、天皇には勝手にこれほど重い責任を負わせるのは良くないだろう。

規模を極端に変えれば、個人の人生はどうだろう。目的は把握されていなければ、無駄な行動は指摘できない。例えば、人生の目的は「ゲームを楽しむ」こととしたら、引きこもりになってゲームをするのは時間の無駄ではなく、むしろ時間を一番有意義に使っていることとなる。同じように、お金を稼ぐことを目標ではないと判断すれば、ほとんどの仕事の意味が見失われる。人間は、度々このようなことを自然に考える。まずは思春期や青年の時代で、そしてもう一回私の年齢、すなわち中年になったら、また定年になると考えるようだ。その時、答えが出ないと不安になるが、答えは存在するか。答えを探る余裕はあるのか。意地悪な解釈とすれば、アリストテレスが人生の目的は人生の目的を探ることだと言ったとも言えるが、そうではないだろう。

とりあえず、過去に選んだ目的を受け入れて、その時期は無駄ではないことを考えるべきだろう。そして、社会的に、人がすぐに有害な道に乗ってしまわないように工夫するべきだろう。

それでも、本格的な答えはない。


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