有害な表現

先日の「巫女とセックス」のマンガを論じたら、確かに内容は良くないマンガに触れた。度々、このような内容を禁じるべきでであると強調する人が現れるが、それはどうだろう。(ところで、得に性的な内容を禁じようとする動きは多いような気がする。それは不思議に思う。損害は大きい分野は多いし、性的なことの優先順位はそれほど高くないと感じる。これは余談だけれども。)

さて、有害な表現、有害な原論を禁じるべきだろうか。禁止を支持する理由は明らかだろう。だって、有害な評伝であろう。この表現を発表すれば、誰かに損害が与えられる。言論の自由は重要であるが、それは人に被害を及ぼさない表現に限るのではないか、と人がよく論じる。

しかし、私は賛成できない。言論の自由は、有害な表現こそを保護すると強調したいのです。

まず、被害を与えない表現などを禁じようとする人は存在するだろう。そもそもいないと私は思う。誰でも、回りの人や国家に被害を与えない言論を潔く許すにちがいない。自分の好みではなくても、自分の意見と違っても、被害を与えなければ、禁じる理由はないし、必要性も感じないのではないだろうか。言論の自由を憲法まで盛り込む目的は、禁じる傾向がある表現を保護することだ。だから、言論の自由を保障する憲法の目的は、有害な表現を保護することであると言える。

そういったら、憲法の概念は間違っているのではないかと思う人もいるだろう。憲法改正して、「無害な言論の自由を保障する」と改めるべきなのではないかと思う人もいるだろう。しかし、その考え方は極めて危ない。

ヨーロッパの歴史を見れば、宗教は顕著な例になる。カトリック協会がヨーロッパを支配した時代、キリスト教の他の種類さえ有害な宗教と見做して、そのような宗教についての発表などを禁止した。つまり、国家が認める宗教以外の宗教は有害であると判断して、その表現を禁じることはできる。同じように、国家の安定を覆そうとする言論は有害であると判断する政府は歴史的に多い。日本の場合、戦時下の政府は最近で顕著な例だろう。その場合、権力者を批判することは、有害な言論と位置づけて、禁じる。

宗教は、生き方を代表するので、有害な表現を禁じれば、行政が好まない生き方の推薦などは禁じることはできる。同じように、権力者の批判を禁じることはできる。この2つの確保は、言論の自由の主な目的である。言論の自由は、様々な生き方を論じる自由、そして社会のあり方を論じる自由、そして最後に事実を疲労する自由の3つからできていると言えよう。この中の2つを確保するために、有害な言論や有害な表現を認めなければならない。

原則として有害と評価された言論を許さなければならない理由を把握しても、抵抗感があるのは当然だ。理由が簡単に見える場合は、政府は悪質で、禁じようとする言論は本当に有害ではない場合であるからだ。表現はホントウに有害である場合、禁じた方が良いのではないかと思うのは自然だろう。ここで一番問題になるのは、宗教の例だ。他の宗教を禁じた人の大半は、心から他の宗教は有害であると考えた。そのような人は、本当に有害な表現しか禁じていないと信じた。だから、私たちは同じ過ちを繰り返さないように、本当に有害だと考える表現を許さなければならない。

それでも、聞く人には精神的な損傷を与える表現はどうすれば良いのかは、重要な疑問である。後日にまた論じる。今日の趣旨は、言論の自由の本質は、有害な言論を保障することである。


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