中祭の共食の儀

小祭の共食の儀は簡潔で、5分以内終わる形式にした。それは小祭の規模と合わせた形だから、中祭以上の祭祀の共食の儀は違うべきだ。(ところで、小祭の共食の儀は、ミサに似ていることに気づいたのは、私だけだろうか。丸くて白い食べ物をいただいて、そしてアルコールが入っている飲み物をいただく。ただし、共食の儀の方が美味しいだろう。)

中祭では、共食の儀をもう少し食事に近づかせた方が良いような気がする。先ずは、ご飯が出ると良い。ご飯と合わせて、おかずも必要だが、味噌汁と香の物はどうかな。そして、飲み物はお茶かお水か。お茶は、日本を代表してきた飲み物だが、伝統のある供物はお水である。味噌汁を含めば、温かいものはあるので、もう1つ加えても大きな問題にならない。(一つ目の温かいものは、温かいものを扱う必要性を導入して、手間を増やすが、二つ目以下は、それほど大きな増加はなかろう。)今考えれば、お水がよかろうかと思う。そして、ご飯にはお塩を振ったら、すべての現在の典型的な供物が入っている。お酒は、お餅と一緒にデザートのような形で召し上がる。

中祭は、幣殿で執り行うので、座って食べる場所を設けることはできる。食べるとき、参列者ごとに台を出すのは良かろう。つまり、個人用のテーブルのような形とする。これも、日本の伝統的なつぎかたであるようだから、それも適切である。次第は、どうすれば良いか、考えよう。

献饌の儀で神前に供えるのは当然だが、何の形でするかは問題である。一つの選択肢は、個人の台に配った状態だ。もう一つは、ご飯を合わせて、香の物を合わせてなど奉ることだ。後者の場合、配る作業が長くなる。前者の場合、献饌の儀が長くなる。しかし、一つ一つ配る作業には、食べ物を落とす恐れが多くなるので、台ごとに奉った方が良いと思える。そうすれば、すべてのお皿や椀には蓋を付けた方が良い。祭祀の間に温かいものがちょっと冷えるのは良いが、冷えすぎは避けたいのだ。

では、次第だが、参列者の代表者がまず祭員から一台をもらって、神前に奉る。そして、お水を注ぐ。次に、参列者が座って、祭員に配ってもらう。参列者は、人数は少なければ(5人以下)神様に向かって一列にしても良いだろう。15人までであれば、神様に向かう列と左右にお互いに向かう列としよう。神様を含めて、四角いになる。

食べるのは、話さずに、沈黙で食べる。儀式であるからだ。直会は、寛いで日常に戻る儀式だから、和気藹々にしても良いが、共食の儀は違う。そして、量を少なめにするので、すぐに食べ終われる。食べたら、祭員が片付けるが、参列者の代表者が神前から撤去する。

お酒とお餅は、最後に小祭のような形で配る。つまり、ピンセットのお箸と杯を使うし、参列者の代表者が神様に配る。

ところで、ここで「参列者の代表者」は、複数の行事がある。食べ物を供えるし、お水を供えるし、食べ物を徹するし、お酒を供えるし、お餅を供えるし、そしてお酒とお餅を徹する。これは、違う人によって行える。つまり、参列者には一人の代表者に限る必要はない。

まだ決まっていないのは、祭祀の全体のどこで共食の儀を行うのかだ。それは、次回考えたいと思う。

共食

先日、直会と神様との共食の位置付けを区別したが、共食の祭祀についてまだ考えていない。前に述べた通り、明治以降一般の神道祭祀から取り除かれているが、宮中の新嘗祭には数時間をかけて天皇陛下が御手ずからで共食を供えられるそうだ。もちろん、神産霊神社では小祭の場合それほど手厚い供え方はしないが、概念として適切であることは明らかだ。

では、その式次第はどうすれば良いのだろうか。まず、小祭を考えよう。小祭は、気軽に執り行ってもらえる祭祀なので、難しい儀式は含まない。つまり、大変簡単な軽食にするべきである。形式の食事でもよかろう。神道の伝統的な神饌を考えれば、お餅とお酒が一番良いのではないかと思う。(個人的に、好物ではないが、私の好物を取り入れることではない。)お餅は、柔らかい餅で、小豆を入れたら良いかもしれない。なぜなら、食べやすくなるし、それに紅白の色が入るからだ。そして、小さな杯とお皿でできるし、飲食には時間もかからない。お餅は、ひと口で食べられる大きさが良い。

式次第の基本的な流れも難しくないだろう。まず、供饌の儀で、この飲食物を奉る。そして、共食の儀になると、参列者に配って、同時に召し上がっていただく。ただし、その詳細は難しい。

では、一つの三方にお皿に載っているお餅と小皿を用意する。お餅が載っているお皿は、神様に向かう方に載せて、小皿を二つに分けて、その後ろの左右に載せる。小皿の後ろに、ピンセットのお箸を載せる。(ピンセットのお箸は、古式の祭祀によく使われているので、ここに取り入れる。)同じように、お酒は、瓶と平らな杯を一つの三方に載せて、お酒を神様の方に、杯を二つに分けてその後ろの左右に載せる。最初は、この2台を神前に供える。

共食の儀になると、祭員がまずお酒を徹して、参列者の方へ持つ。参列者の代表がお酒を杯に注いで、その杯を三方に載せる。そして、三方を祭員に渡して、神前にまた供えてもらう。それから、参列者が順番に前に進み、お酒をいただく。全員が同時に飲み干す。次は、祭員がお酒を横に片付ける。そして、同じようにお餅をする。お箸を使って、お皿から餅1個をとって、小皿に載せる。まず代表者が神前に供える。それから、参列者がいただく。

祭員は、共食に直接に参加しない。このような氏子祭の小祭では、神職などは仲執り持ちであり、祭祀に参加していない意味もあるからだ。寧ろ、参列者と神様の間を取り、参列者が奉るものを神前に供えるし、参列者の飲食を神様に代わって配る。

この次第は、少数の参列者の場合に適切である。しかし、参列者が数十人を越えれば、時間が相当かかる。その場合、最初から複数の三方に分けて、数人を同時に受けてもらったら良かろう。ただし、参列者が数列になると、その移動も問題となるので、また考えなければならない。

共食の概念は、神様と一緒に食べることで、ご利益やご加護をいただき、神と一体になる。この概念をどうやって祭祀次第に取り入れるかは、後日に考えたいと思う。

直会

直会というのは、今神事の後の食事を指す。一般の昇殿参拝では、退く時にお神酒をいただくのは直会の略式だが、大きな祭祀の後で氏子などが一緒に食事をして、直会を行うこともある。直会の意義について、潔斎を解ける儀式である説は有力であるようだ。一方、神様と一緒に食事して、それと通して神人一体になる説もある。(神と人が一体になる説は神道の歴史には重要である。)

その上、食べ物を神様に備えるのは神事の必要不可欠な一部である。現在、神饌の多くは生で、お米や丸ごとのお魚を備えることは多いが、それは明治時代以降の習慣であるそうだ。明治維新まで、神饌のほとんどは所謂熟饌で、調理済のものだった。その場合、神様に食べ物を奉る意味は明確だっただろう。さらに、宮中祭祀の重要な新嘗祭と一代一度の大嘗祭では、儀式の中心は神様との共食であるそうだ。

食事の重要性は否めない。(ちなみに、外国人の立場から見ると、食事は日本の固有宗教の中心にあることはぴったりだと思う。)ただし、どういう風に実現するかは、明らかではない。基本的な問題は、潔斎の解除と神様と一体になる意味を持つ儀式を一体にするのは難しいことだ。神様と一体するのは、神聖の頂点に当たるはずだから、同時に潔斎を解除することはありえないだろう。

だから、別けて行うべきだろう。現行の神社本庁の祭祀次第には、共食は入っていないので、また式次第を考えなければならないので、まず直会のことを考える。直会は、潔斎の解除を象徴する儀式として位置付ける。そうであれば、具体的に実践する方法も考えられる。

まず、着替えを先にするべきだ。小祭の場合、それはただ白い法被を脱ぐだけだが、中祭の場合、和装から普段着に着替えなければならない。そして、参列者は一緒に食べる。少なくとも、飲み物も食べ物があると良い。ただし、直会と神との共食を別けたら、直会で飲食するものは、下げられた神饌とする必要はない。供物は神聖になるものだから、潔斎を解除するために、神聖ではないものを飲食した方がよかろう。一方、神様のご加護を象徴するために、お下がりを下すのも良いが、それは直会と別になる。

そう考えれば、小祭の場合、お茶と和菓子で済ませると良かろう。和食とするのは良いし、お茶は象徴的であるし、すぐに食べられるものだから、小祭の直会にはふさわしいと思う。では、中祭の場合、もう少しちゃんとした食事としたら良かろう。参列者が一緒に座って、食べると良い。そして、和食にすれば、内容は自由だろう。カフェのような存在になるだろう。しかし、直会なら、それで良い。潔斎を解除するつもりだから、くつろげる雰囲気こそは相応しい。

なお、直会にはこの意味合いがあれば、神職などは直会に参加しない。なぜなら、神職は引き続き祭祀を執り行うからだ。潔斎を解除するわけにはいかない。